海禅寺


『俵藤太絵巻(栃木県立博物館蔵)』 より

所在地 茨城県守谷市高野
祭 神 地蔵菩薩(伝・如蔵尼持仏)
ご利益 所願成就

筑波エキスプレス守谷駅前の売店で「この辺りに将門公の史跡はありませんか」と伺うと、「たしか、古いマップがあったな」と何やら奥の棚をゴソゴソと捜してくれました。 「あったあった」と出してくれた最期の一枚は、約十年前に守谷市観光協会が発行した『守谷 歩こうマップ』でした。いくつかのモデルコースの中に「将門伝説コース」を発見。そして海禅寺のわきに「平将門と七人の影武者の墓」 !!!

で、上の写真が その墓です。江戸時代に建てられたようです。
その下の画は『俵藤太絵巻』に描かれている将門と七人の影武者です。将門の弱点であるこめかみに矢が当たり、影武者たちの姿が消えかかっています。将門は戦場で討ち死にしたことになっていますが…左端で矢を射ているのが俵藤太(たわらのとうた)、つまり藤原秀郷です。

ここに祀られている七人の影武者とは、じつは七騎武者のことらしい。敵軍に待ち伏せされたときに身代わりになったといわれていて、もともとは七騎武者たちは現在の守谷城跡やここの周辺に残る土塁で野性の馬を調教していたのだといいます。

将門の伝説や遺跡は全国にありますが、家来の墓はめずらしいそうです。
その後この地を支配したのは将門の数代後に繋がるといわれる相馬氏ですが、海禅寺はその菩提寺となりました。その相馬氏も小田原北条氏に与して滅亡します。

八基並んだうち、右端のひときわ立派な塔には「平親王塔」と刻まれている。探し当てた時にはなぜか懐かしさをおぼえた。本堂には将門の位牌もあるという。

 

海禅寺は臨済宗妙心寺派の禅寺。質素だが威厳のある佇まいだ。寛文年間(1661〜1672)に、守谷領主になった堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』によると創建は延長8(930)年で、平将門が京都から相馬御厨の下司に任ぜられて帰郷し、承平元(931)年に父親の菩提を弔う為、高野山金剛峰寺を模した海禅寺を建立したとあります。将門の母や弟の将頼が住んだともいわれています。その後、承平5(935)年頃から源一族や叔父たちと対立し合戦を始めます。ここには戦に明け暮れる前の将門がいたのかも知れません。
また、国王神社で父の像を彫った三女の如蔵尼の持仏がここの本尊ともいわれていますから、将門ににはかなり縁のある寺です。

禅寺らしく、カッチリと並んだ六地蔵。前掛けも几帳面だ。

境内の端に石仏がびっしり隙間なく並んでいました。その中に不思議な像を発見。不動明王に見えますが、上には庚申塔のような日輪と月輪、背中には火焔の代わりに鳥の羽が…。天狗でもないようです。もっとゆっくり調べてみたいです。どなたかご存知でしたら教えてください。

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