島広山周辺

所在地 茨城県坂東市岩井
祭 神 大日如来、薬師如来、一言明神(一言主命)
ご利益 守護、水乞い

国王神社の近くには平将門が承平5(935)年に築いたという軍事上の拠点・石井(いわい)の営所がありました。砦ではなく営所です。つまり周辺には将門の館、重臣・郎党たちの居館、多いときには2千〜3千からなる兵士の居住兼駐屯所、食糧庫、馬の施設などが揃った施設だったと考えられています。つまり政治、経済、軍事の拠点として賑わっていたのでしょう。
しかし天慶3年(940)藤原秀郷と平貞盛の連合軍に焼き払われてしまいます。

この一帯の台地は「島広山」とよばれていますが、上の写真のように特に高い山があるわけではありません。土地の人々は森や林などを「山」とよんでいたようです。写真は延命寺の山門前からの景色で、まさに「国敗れて山河あり」の哀愁を感じます。もちろん、将門の史蹟を求めてここを訪れた人間の勝手な感傷ですけどね。

将門は石井営所の近く北山(詳しい場所は特定できていない)で400名ばかりの手勢で強風の中、追い風にのって10倍の敵軍と戦います。敵のほとんどが恐れをなして逃げ去ったとき、風向きが変わり自らも戦い続けた将門の馬は失速し、わずかに300名残った敵兵の矢に当たって討ち死にした。

以上の話は通称『将門記(しょうもんき)』という書物に書かれていたものですが、原本は現存していません。2種の写本があるのみです。

国王神社の別当寺「延命寺」の山門です。左写真は境内から島広山一帯を望んだもの。石井営所の鬼門除けの寺院で、将門持念仏の薬師如来が祀られているところから島の薬師ともよばれています。右写真は山門と共に市の重要文化財に指定されている石製の太鼓橋。

 

外から見た延命寺の山門。数度の火災に見舞われましたが、この山門だけが残っています。

「一言神社」将門が水不足で難儀していたとき、老翁が現れ井戸に水をだしてくれたという。その老翁はこの地の守り神だったそうです。神社名から察すると「一言主(ひとことぬし)の神」であったと察することができますが、多くの小規模神社は明治時代初めに社名や祭神などの変更を強いられていますので詳しいことはわかりません。
近くにはその石井の井戸が残っています。

一言神社の狛犬。ずいぶんな鳩胸でふんぞり返っているがとても愛嬌がある。この神社には狛犬が二対あるが、どちらも個性的だ。狛犬マニアにはおすすめ。

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