第一話 高尾山・薬王院を開山したのは誰?
行基と俊源の架け橋となった人物がいた

 高尾山は聖武帝の御宇・天平十六(744)年、行基菩薩によって開山されたことになっています。「なっています」というワケは以下にご紹介する多くの文献に、ごく当然の史実のごとく記述されているからなのです。しかし、じつに不思議なことに、これが史実でないことは、高尾の歴史や信仰に係わるほとんど全ての方々が承知の上のことなのです。

 …その理由はこれから徐々にご説明していきますが…これは何も高尾山・薬王院に限ったことではないのです。たとえば、高尾近辺では高幡不動で有名な日野市の高幡山金剛寺、神奈川県津久井郡の普門院(薬王院末寺) 、元正天皇の霊亀二(716)年開創といわれている神奈川県伊勢原市の古刹・日向薬師の霊山寺(宝城坊)…などなど、私が知る限りだけでもこれだけあるのですから詳しく調べれば行基菩薩の開山と伝えられる寺院は一体どれほどあるのか想像もつきません。実際は日本全国で千四百ほどあるそうですが…
 それでは、なぜこのようなことになっているのでしょうか。
 答えは簡単です。伝承と史実は一致しない、ということが学界や宗教界の間では常識であり、これに対していちいち「インチキだ!」「開山じゃなくて改竄じゃないか!」などと言及するする学者や歴史研究家、宗教者はまず、いないからです。つまり、寺社の歴史・縁起は神話や伝承の一種だと理解すれば良いのです。

  以下、高尾山の開山に関する記述をいくつか紹介しましょう(年代表記は統一してあります)


●古今の高尾山開山情報

1 文政三(1820)年、八王子千人同心組頭であった植田孟縉(うえだもうしん)が多摩・秩父郡を中心とした地誌『武蔵名勝図会(*1)』を著しましたが、その「高尾山」の項には
「…高尾山は聖武帝の御宇天平十六(744)行基菩薩の開建にして、薬師の古道場なり。年歴久遠にして、荒廃知るべからず…」とあり、これは高尾山薬王院の縁起(寛延中=1748〜1750年)にあるということです。他にもいくつかの縁起があるようですが、薬王院の縁起が書かれたのは、どうも江戸時代中期以降のようです。

2 同時期に編纂された『新編武蔵風土記稿(*2)』の多摩郡の部分も植田孟縉の手になりますので、ここにはほぼ同じ事が書かれています(左写真)。ここで紹介されている縁起には「行基大士が手ずから薬王の像を彫り、寺の名を有喜、院の名を薬王としたが歴年の後荒廃した」とあります。
 
3 昭和二(1927)年に出版された初の高尾山総合ガイドブックともいえる『高尾山誌(*3)』「歴史」の項には
「高尾山の繁昌は既に古い時代からであつて、其の起原は天平十六(744)年、行基菩薩、聖武天皇の御願を奉じ、この霊域に來て、自ら薬師如來の尊像を彫刻し、一宇の草堂を建立せしに始るのであるが…」と紹介されています。つまり当初は小さなお堂にすぎなかった、ということらしいのです。

4  もちろん薬王院の縁起ですから平成十二(2000)年に薬王院で監修・発行された(いわゆる公式ブック)『高尾山薬王院(*4)』にも「高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、高僧行基菩薩により開山されたと伝えられる」とあります。同じく薬王院発行の小冊子『高尾山(*5)』には、現代語に直した、もう少し詳しい縁起文が掲載されています。文面は第二
話でご紹介します。

5 つぎに平成十六(2004)年、縣敏夫氏より発表された論文『高尾山の神霊碑と修験(*6)』の導入部には「高尾山信仰の始まりは、縁起によると天平十六年(744)、行基菩薩が勅命を奉じて薬師如来を祀り、薬王院有喜寺として開山された」と記されています。

6 翌、平成十七(2005)年に発行された法政大学名誉教授・文学博士村上直氏編著の『高尾山薬王院文書を紐とく(*7)』のまえがきにも「薬王院は寺伝の縁起によると、奈良時代に高僧の行基が勅命によって開山したとあり、」と書かれています。

…もう、これ以上列記してもキリがありませんのでこのへんでやめておきます。
 つまり古来、高尾山は天平十六年(744)に行基によって開山されたということが常識…というか、一種の「疑問を挟んではいけない決まり事」になっています。

 ところで再度申しあげますが、一部の宗教家や信者は別としても、寺社の縁起や伝承をそのまま史実として捉える研究者はおりません。ただ、彼らが「そんなものはウソっぱちだ!」と断言しないわけは、そこには何らかの歴史的必然性や当時の人々の心情的・信仰的需要があったはずと推測するからで、その真偽を云々するべきものではないという暗黙の掟があるのでしょう。
  事実、縁起や伝承の裏には、ご先祖の心情と生活を知る重要なヒントが潜んでいるのです。そこに歴史、特に伝承の妙味やロマンがあるわけです。

 さて、前置きが長くなりましたが結論から申しますと、上記の通りで、残念ながら行基大僧正(668-749)ご本人が関東の高尾山を訪れたことは、まずあり得ないといわざるを得ません。ただし、史実としてそれを否定することも証明することも出来ません。
 しかしこれは、たとえば聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山の山頂まで飛んでいった…、役行者が流刑地の伊豆大島から夜な夜な空を飛んで日本全国の山岳霊場を巡って開山した…、弘法大師がやはり全国を巡って、杖を突きながら泉や池を湧出させ、食事をした後に箸を刺したらそれが大樹に成長した…、などという話と同じレベルの伝承なのです。これらの話は偉人・聖人の奇跡談といわれています。


薬王院境内の行基像とその解説文



●行基が高尾山に来なかったわけ

 行基にゆかりのある…つまり行基が建立したとか、尊像を彫ったという縁起や伝承を持つ寺院は、北海道から熊本まで千四百寺あまりあるといわれています。もちろん薬王院もその一つです。
 しかし、実際に行基が建立した寺院は「行基の四十九院」とよばれ、大阪府を中心とした畿内に限られており、そのうち十二寺院のみが現存していると考えられています。

 この四十九院の基となったのは行基が造った布施屋とよばれる土木事業や衆生救済の拠点となった施設でした。
 行基はこの布施屋を拠点にして多数の架橋(六所)、道路(一所)、港(二所)、溝(七所)、樋(三所)、溜池(十五所)、用水路(四所)などを造っています。そしてこれらの事業は行基の作業日誌ともいえる『行基年譜』などの資料に記録されているそうです。これらの土木工事跡も神戸、高槻、宇治、奈良、堺、岸和田周辺に限られており、やはり畿内の域を出ていません。

 ちなみに『行基年譜』は時の政府に提出した書類の可能性があるということですから、非常に信憑性の高いものと考えられています。

 下の絵は「元興寺極楽坊図絵縁起 巻上」に描かれた行基(赤い僧衣)。橋を架けているところで、このように行基の元には多くの信者(老若男女から様々な技術を持つプロ集団まで)が集まって作業に参加していたようです。

『週間朝日百科 仏教を歩くNO.17(*8)』より転写

 行基は天武天皇十一(682)年、15歳で出家してから奈良の高宮寺で受戒(仏教の規律を受けることを誓う)、飛鳥寺(元興寺)、生駒山中などで修行をし、慶雲元(704)年頃から畿内を中心に寺院を建立し始め、60歳代から土木工事を手がけています。
  当初は私度僧(官許を得ていない僧尼)として民間布教を禁じられるなど不遇でしたが、天平十三(741)年、74歳の時に聖武天皇の訪問を受け、天平十五(743)年、76歳で東大寺大仏建立のための勧進僧(工事手配や金品調達の責任者)となり、天平十七(745)年、78歳で日本初の大僧正となり、その4年後に亡くなっています。

  さて、そこで行基が天平十六(744)年に武蔵の国までやってきて高尾山を開山したということになりますと、その地位と任務、年齢が問題になるわけですが、
1 当時の行基は、東大寺大仏建立のための工事・資金の総責任者、いわば総合プロデューサーであり、本人がそのような時に畿内を出て全国を巡ったとはとても考えられません。
2 高尾山開山当時の行基の年齢は77歳です。…いくら菩薩とも文珠菩薩の化身とも讃えられた高僧とはいえ、実在した人物ですから分身の術でも使わない限り、山を拓き、手ずから薬王像を彫り、小さいとはいえ堂を結ぶなど、現実的にはとても不可能なことです。
3 ただし、日向薬師を開創したといわれる霊亀二(716)年は、行基49歳の時です。この頃は行基の民間伝道が禁じられる直前ですから、その活動は体制の目に余るほど盛んだったのかも知れません。とはいえ、行基とほぼ同世代の薬師寺の僧、景戒の著した『日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)』に記されている行基大徳の説法や活動の様子をみても、畿内での話ばかりです。


●では、一体誰が高尾山を開山したのでしょうか

 行基伝説に関しては、本人が係わったとは考えにくい寺院建立・開山や彫像、土木事業などの伝承だけではなく、「行基葺(ぎょうきぶき)」とよばれる特殊な形状の屋根瓦を使った建築工法や、日本初の地図といわれる「行基式日本図=行基図」などにもその名を残しています。つまり、日本地図を最初に作ったのは行基だというわけです。


14世紀初頭に成立した百科全書『拾芥抄(しゅうがいしょう)』に掲載された「行基図」。
www.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/2001haru/shougaisho.htm より


 これら多くの伝説は取りも直さず、行基が聖徳太子や役行者などと並ぶ当時の大スターだったということを物語っています。当時はテレビも新聞もありませんから、この行基人気の背景には、それを全国に伝え歩いた多くの人々の存在があったということです。
 その第一に挙げられる人物が、治承四(1180)年に戦火で焼失した東大寺を再建した俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん=1121-1206)だといわれています。この重源が後白河院より東大寺再興の勧進僧に任命されるのが、行基が勧進僧になった時から440年後の養和元(1181)年です。
  この時、重源は60歳を超えていましたが超人的な働きを見せて溶解した大仏と東大寺を再建します。そして多くの堂宇や仏像を造るだけでなく、民衆救済を目的とした土木事業も手がけています。つまり道路、橋、溜池、港の整備などをはじめ、その中には、かつて行基が手がけた池の改修なども含まれています。
 
 重源の業績は、まさに行基の生きざまを踏襲したものであり、自らも意識的に行基の再来を演じたのかも知れません。そして重源配下の勧請聖たちは行基の足跡を大きく飛び越え、日本全国津々浦々まで行基伝説を広めたと考えられています。
 
つまり、高尾山はこの時代になってようやく彼らの活動範囲内に入ってきたのでしょう。

 ところで、なぜ当初の高尾山に薬師如来が祀られたのでしょうか。わが国へ仏教が伝わったのは欽明天皇十三(552)年とも538年ともいわれていますが、すでに飛鳥時代から薬師信仰はあったらしく、峯の薬師のように山内に祀られることも多かったようです。
  当時の仏教は国家や貴族のための宗教でしたから「国家安寧」「貴族など、有力一族の繁栄
」のために信仰される場合が多かったのですが、それらの神仏の中において薬師如来は「病気平癒」など、現世利益的な要素が強かったため、貴賤を越えて人々に受け入れられやすかったと思われます。
  特に医療の発達していない時代、癒病延命の法薬を下さる大医王仏として庶民から信仰され、仏神にもかかわらず民間では神社にも祀られるほどの人気だったようです。つまり、ある意味、薬師堂は当時の病院みたいな存在だったのかも知れません。純朴な人々にはプラシーボ効果も充分あったことでしょう。

*写真は三沢市の薬師神社に奉納された薬師如来像(絵画)。ここはかつて薬師堂とよばれていましたが、明治の神仏分離令により神社としました。つまり庶民にとっては仏様も神様も同じだったというわけです。


 さて、この乗坊重の中三文字を除くと、重配下が全国を巡った約200年後の永和二(1376)年に醍醐寺から入山し、高尾山薬王院を中興したといわれる沙門俊源(俊源大徳)の名になります。第二話で詳しくご説明しますが、この一致は大変興味深いことなので覚えておいていただきたいのです。
 そして、もう一つ重要なことは、この重源は法然(ほうねん=1133-1212)について浄土宗に帰依するまでは醍醐寺で密教を学んでいたということです。つまり醍醐寺からやってきたといわれる俊源の大先輩なのです。

 じつはどの本を見ても高尾山を行基が開山し、その630年後に俊源という僧が何の脈絡もなく突然入山しておびただしい数の護摩を焚き、飯縄大権現を感得して薬王院中興の祖といわれるようになるのですが、以上のことから行基と俊源の間は空白ではなく、そこには乗坊「重」配下の勧進僧たちの存在があったことが伺えるのです。
 
それどころか以上長々と書いてきましたように、もともと行基は高尾山に来ていなかったとしますと、薬王院の開山は8世紀中頃ではなく12世紀後半で、俊源大徳によって中興されたとされる14世紀後半ですら現在のような堂宇群はなく、小さな庵があったという規模の寺院だったのではないでかと考えられるのです。外山徹氏も、近郷の信仰を集めていた程度の目立たない存在だったと書かれているそうです(*6)。
 

*1『武蔵名勝図会』 植田孟縉が『新編武蔵国風土記稿』と平行して著した本。文政三(1820)年に完成。昌平坂学問所へ献上したのが1823年ですが、江戸時代には刊行されませんでした。「武蔵」の名がついているが、内容は多摩地区に限られている。
*2『新編武蔵国風土記稿』 天保元(1830)年、江戸幕府が調査、編集した資料で、江戸時代には未刊行。編纂作業は、湯島聖堂の昌平坂学問所・地理調所だが、多摩・秩父の編纂に植田孟縉が係わっている。私の手元にあるものは平成8年6月に復刻されたもので、雄山閣から発行された全十二巻。
*3『高尾山誌』 逸見敏刀著/上田泰文堂/昭和2(1927)年10月発行。100ページほどの小冊子だが、内容は高尾山の地理、歴史、動植物、登山の手引きコース、行事などにまで及び当時としては画期的なガイドブックだと思われる。
*4『高尾山薬王院』 高尾山薬王院監修/相原悦夫著/百水社 今でも境内のお札授与所(売店)で入手できます。 
*5『高尾山』 昭和五十三(1978)年、大本山 高尾山薬王院 高尾山報 編集発行
。価格もありませんので非売品と思われます。
*6『高尾山の神霊碑と修験』 縣敏夫氏著/平成十六年『野仏・第35集』多摩石仏の会発行。
*7『高尾山薬王院文書を紐とく』 村上直・編著、外山徹、岩橋清美、吉岡孝著/ふこく出版。
*8週間朝日百科 仏教を歩くNO.17 2004年2月15日号/朝日新聞社。

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