第二話 俊源大徳の薬王院中興について
俊源は実在の人物か

 天平十六(744)年の行基菩薩の高尾山薬王院の開山説から約440年後の養和元(1181)年、焼失した東大寺再興を任命された俊乗坊重源配下の勧進僧たちの存在がありました。
 それに続いて永和年間(1375〜1378。永和二年説があり)に京都醍醐寺から高尾山にやってきたとされるのが俊源大徳という高僧です。縁起によりますと俊源大徳によって高尾山薬王院は復活したばかりでなく、現在に見られるような隆盛を得たということで、薬王院では俊源を中興の祖としています。
 しかし


●高尾山の縁起

 さて、俊源とはどのような人物だったのか、再び高尾山の縁起を詳しく見てみましょう。まずは、最もわかりやすいのが『高尾山(*5/下写真)』に掲載された薬王院の縁起です。

武州高尾山 御縁起文
抑々吾高尾山は人皇第四十五代聖武天皇の天平十六年行基菩薩 勅を奉して此の寺を建立し本尊薬師如来を安置し玉へり。其のち物替り星移りて今を去ること五百八十有余年。永和年間山城国宇治の郷醍醐山より俊源大徳来つて当山の興隆を祈り大聖不動明王の八千枚の護摩供秘法を勤修し飯縄大権現を感得せらる。夫れ飯縄大権現者本地摩詞毘盧遮那如来の垂迹不動明王両部不二の化身にして往昔の大悲願力に催されて末世の福徳薄く諸病に苦しむ吾等を救わんが為に一体五相の姿を現わす。
五相と者 一には向背に火焔を負い左右の手に剣と索とを持てるは不動明王の御本誓を現わし悪魔を退治し慈悲の智恵を以て種々の煩悩病苦を焼き尽し。二には歓喜天の心を抱きて求むる所の利益を施し。三には鴟啄と羽翼ある鳥の姿は迦楼羅天の飛行自在の徳を表わし。四には白狐に乗つて荼枳尼(だきに)天の福を授く。五には白蛇を頂くは宇賀(うが)神の宝珠と弁財天の愛矯を與へ給うなり。
是くの如くの五相合体の相貌を示し誓願を告げて忽然として紫雲の内に入り給へり、其翌日異人来つて尊像を彫刻まんことを希い一七ケ日にして彫刻み了つて何処に去りしや知る者なし時の人是を呼んで大権現来つて自ら作らせ玉うならんと謂へり其彫刻みし尊像は今の本尊飯縄大権現即ち是れなり。鳴呼貴哉信心の吾等身を浄め心を正しゆうして本尊飯縄大権現の宝前にぬかづきて速に現当二世の利益を円満せん事を。


上の写真(書)は高尾山薬王院より発行された案内小冊子『高尾山略記』。
中国の観光客向けにごく最近リニューアルされたパンフレットのようだが、書(漢文というより中国語)だけでも全10頁以上にわたる力作。
前貫首・第31世山本秀順大僧正(平成8年2月寂)の写真の上に現貫首・第32世大山隆玄大僧正の写真が重ねてあるところから
(もちろん両方拝見できるように糊付けされています)、初版は平成7年以前に作られたようだ。

 現在刊行されている書物で紹介されている高尾山の縁起は、だいたい以上の内容に沿っています。他にも高尾山縁起は5〜6種あるそうですが、『高尾山の神霊碑と修験(*6)』『高尾山の記念碑・石仏(*8)』を著した縣敏夫氏によりますと、第一話でご紹介した『新編武蔵風土記稿(*2)』『桑都日記』にあるものが基本資料だそうです。


『新編武蔵風土記稿』の縁起は漢文なので、以下、現代語に訳しますと

 後圓融帝の五年震(この年代に関してはさまざまな説がありますが、縣氏は永和二年説をとっています)、沙門俊源(俊源には「沙門」「大徳」「法印」などの尊称がつけられています)という者、何処の人かは知らず、高尾に来遊し、それ以降(当山を)名嶽とした。始めて茅茨をもってて方丈(四畳半の堂)を立て、経と像を安置する(つまり、それまで庵もなかったということでしょうか)。俊源は京の醍醐俊盛法印に師事し、今に迄るまで、累々とその法を継いでいる。俊源は勇猛精進の人と伝えられ、よく祷事を奉じる(祈祷が得意だった)というその修行の場は東澗中にあり、霊泉と称されている(独鈷水と称される井戸で俊源遺跡といわれていた)。そこで十万枚の護摩を修し、心疲して假寝していると、夢に人面にして鴟啄蒼蛇(しかいそうだ)を冠り(烏の嘴を持ち、頭上に蛇を戴く)竺服を着、背に焔火を出し、腋には両翼を張り、剣を擁し、白狐に跨るもの現わる(イラスト参照)。之に謂ひて曰く、余、阿遮羅明王たり、叔世辟多く、諸魔まことに繁し(障壁・苦しみが多い)。爲にただ余、震雷、馮して将に之を降伏せしめんとす(震雷のごとく困難にぶつかる、または震雷に対しても立ち向かうということか)。故に此の竒変を現す(このような奇怪な姿で現れた)、是を飯縄神という。汝まさに清め祀るべしと。したがって自らその像を刻せんと欲し、思うて未だ得ず(俊源はこの幻想を像にしようと思ったが容易ではなかった)。一夕、異人(凡人とは異なる容姿・雰囲気の人)来たりて曰く、我これを能くせんと(私がその像を刻みましょう)。すなわち山西の窮谷巌下の間(客殿や穴弁天あたりから下に落ちている谷ではないかと思います)に庵して、人の之を窺うを許さず。七日、始めて其像を成す(7日後にその像を完成した)。則ち夢みし所の如く威霊赫々、見る者毛起し、正視することを得ず。異人また去り所を知らず。すなわちち祠を建てここに安んず。土人(土地の者)、俊源の祈禳する所により、幸いを得ざる者なし。異人の庵、その跡猶存す。今炊谷(かしきだに)という。


上の絵は天保七(1836)年の『八王子名勝志』に描かれた俊源の飯縄大権現感得図。縣敏夫氏の『高尾山の霊神碑と修験(*6)』より転載

 これは江戸後期の寛延二年(1749)に筑波山人石正猗(石嶋仲縁)という人物が作成したもので、縁起としては最も古いといいます。縁起はほかに数点みられますが中興の祖・俊源大徳に関する伝承はほとんどここから出ているようです。
 ただ、先にご紹介した『武州高尾山御縁起文』 の俊源が、八千枚の護摩を焚いたのに対し、こちらでは十万枚の護摩を焚いており、この数字はかなりオーバーではないかと思われますので、八千枚に修正されたのかも知れません。
 また、佐藤孝太郎氏の『多摩歴史散歩1(*10)』 によりますと
すなわちち祠を建てここに安んず」と書かれた場所は今の「奥の院」であったとしています。

 注目すべきは「醍醐俊盛法印」の名があることで、俊盛という密教僧は実在の人物であったということです。
 一方、高僧といわれる俊源大徳の名は
高尾山薬王院の文書のみにわずかに残っている程度で、それも確かなものになると元禄五(1692)年以後のものとなり、他の数点も近世の写しと見られており、どうも実在の人物ではなく、俊盛の仮の弟子を創出したのではないかというのが、学者の間では定説になっています。
  といいますのも
『高尾山薬王院(*4)』によりますと俊源は永和四(1378)年10月4日入山からわずか0〜3年以内に亡くなってしまうことになっており、この短期間に方丈しかなかった寺を中興するのは不可能、とは前出・縣氏の説です。ただし佐藤孝太郎氏の『多摩歴史散歩1(*10)』では「俊源は弘和三=永徳三(1383)年寂し」となっています。

 
また、上にご紹介した縁起文中の俊源という者、何処の人かは知らずという文章が何よりも真実を物語っているのではないでしょうか。
 そこで、私はこの「俊源」という僧は第一話でお話ししましたように
乗坊重源から二文字をいただき、実在した密教僧俊盛の弟子として創作された人物なのではないかと思うのです。

 さらに縣敏夫氏は『高尾山の神霊碑と修験(*6)』のまとめではっきりと俊源の存在に疑問を呈しています。その一部を引用させていただきますと
 さて「高尾山と修験の関連」を進めるうえで、高尾山縁起の再検討は、本稿をすすめて行くうえで避けられない重い問題であることに突き当たった。従来、南北朝に俊源が中興したとする縁起は、高尾山に関するどの文献をみても、寺史(縁起)によるとの前置きつきで中興俊源のことを史実の代りとして述べている。しかし『高尾山薬王院文書(一)』の関口恒雄氏の解説により、後世の写し文書を照らして見ても、いかんとしても中興俊源の存在は稀薄であることは否定できない。結論として高尾山には修験の存在がなかったのであるが、それらを整理すると次のようになる。
  @中興の俊源は血脈(法脈の証)などの資料をたどっても江戸前期の元禄頃までしか遡れない。俊源が法脈を伝えたとする京都醍醐山の三宝院門跡が当山派修験の法主となるのは近世初頭の慶長十八(1613)年からであり、中世には三宝院は修験との関連は稀薄であった。従って中興の俊源説は史料的な裏付けに乏しい。しかし、南北朝中期の板碑(薬王院境内から出土したキリーク=阿弥陀如来の梵字が刻まれた板碑のことで当時の特徴をよく表しているというが、写真のみ現存)が存在することは、俊源に等しい人物が中興に当ったことは動かない事実であろう」

 とあります。

 ところで誤解していただきたくないのですが、これはいわゆる一種の聖人信仰というものですから私は「俊源大徳なんていなかったのだ」と声を大にして得意げに異議をとなえるつもりは毛頭ありません。たとえば、弘法大師の史跡を訪ねるたびに「こんなものは作り話だ!」と叫んでも何の意味も無いことと同じです。
 ただ、「史実を知る」というほどまではいかなくとも「史実を探る」ということは歴史を学ぶ者としてのロマンなのではないでしょうか。私の愚説などで高尾山薬王院の権威に影響を及ぼすなどとは、とても考えられませんので、お許し下さい。


左は奥の院に鎮座する俊源大徳像。右は四天王門脇の俊源大徳像で、修験者(山伏)の姿をしている


●なぜ薬王院の本尊は薬師如来から飯縄大権現に変わったのか

 さて、実在云々は別としまして、なぜ俊源大徳が薬師如来ではなく、飯縄大権現を山の本尊に据えたかということですが…ここでは、天平十六(744)年行基が山内で手ずから彫ったという薬師如来像の行方は不問としておきましょう…その理由は『高尾山誌』で逸見敏刀が述べていることが最も的を射ていると思いますので、ご紹介いたします。

後圓融帝の永和元年、中興の沙門俊源が霊夢によつて、飯綱権現を一山の守護神として山頂に勧請してからは益々隆盛の度を増して來たのである。一体、信仰史上から見ると、かやうな特種の化現神の信仰は、思想の尤も不統一な戦國時代に於て大に発現した様であるが、高尾山に於ても、この飯綱権現を勧請した時季がよかつたため非常な繁昌を告げるに至つたものであつて、現在、同寺の寶物、天正三年霜月廿一日に、八王子城主北條奥陸守氏照の出した、高尾山開帳制札(挿絵及別項参照)を見ると、「参詣の輩で堂場に於て狼籍喧嘩口論等をした者は罪科に処す」と云ふ事が記されてゐるが、これは、當寺の本尊開帳の時、多数の参詣者が山に集つて、喧嘩口論なごをする程に雑沓を來し、遂には氏照の制札を以てこれを防がねぱならぬ程の繁昌を告げた事を物語る一つの證拠である。


天正三(1575)年十一月、上記の禁止令が書かれた北条氏照の文書。『高尾山薬王院文書を紐とく(*7)』より転載

 「時季がよかつた」とはどういう意味を持つのでしょう。
  そもそも飯綱(飯縄)権現とは天福元(1233)年、修験者でもあった千日太夫という武将が信州の飯綱山中に千日間籠もって感得したという「
化現神」で、当初は武田信玄、上杉謙信、北条氏康・氏照親子などの名だたる戦国武将に篤く信仰された戦神(いくさがみ)だったのです。
  俊源大徳が中興したといわれる
永和年間(1375〜1378)は南北朝内乱のまっただ中で下克上のエネルギーが諸国に充満し、爆発寸前の時代でした。やがて武田、上杉、北条が三すくみとなり、しのぎを削り合った最前線がまさに、高尾山周辺だったのです。
 したがって、立地的にも「庶民の現世利益」のための薬師如来より、一気に戦国武将という大スポンサーを獲得できる「戦神」を本尊に据えたほうが寺の繁栄のためには有利だと考えたのではないか…そこでご本尊を変えるための大義名分として架空の高僧の伝説が必要になった…とは穿った見方でしょうか。しかしこれこそが「時季がよかつた」ということだと考えます。

 とはいえ、薬王院に残っている古文書としては最も古い永禄三(1560)年12月28日の北条氏康の判物(はんもつ=領主の花押付き文書)には「高尾薬師堂修理の為、武州に於いて一所を寄進申すべく候…」と書かれています。
  また、寛永八(1631)年9月に鋳造された薬王院の「寛永古鐘(左写真)」に残された銘には「武州高尾山有喜寺は瑠璃光仏の垂跡(垂迹)なり」と書かれており、この二例だけを見ても薬王院の本尊は少なくとも江戸時代初期までは依然薬師如来(薬師瑠璃光如来)だったようです。
  実際に高尾山の飯縄大権現が文中に登場するのはこの「寛永古鐘」の『梵鐘の勧進帳案文』の中で「そもそも此山者、東方瑠璃医王之垂迹、愛宕飯縄大権現修鎮護成」とあり、ここでいう愛宕飯縄大権現は薬師如来を鎮護する役であったのです。しかもこの文書は俊源大徳の入山から約260後に書かれたものです。

 ここで本尊や寺院(山)を「鎮護する役」を担う神々とは、例えば薬王院では十二神将、四天王、仁王、三十六童子などがあげられますが、大天狗・小天狗も忘れてはならない存在です。じつは「愛宕飯縄大権現」とは「愛宕権現」と「飯縄権現」のことなのですが、その本体は下写真のごとく嘴と翼を持つ天狗なのです。したがいまして、この頃に飯縄大権現が本堂の主であったとは考えられません。そのあたりにつきましては、第三話で詳しくお話しいたします。

  ちなみに飯縄大権現は戦火が収まった江戸時代以降は戦神である必要はなくなりましたが、火伏せの神・福徳神、時として養蚕や雨乞いの神となってからはますます庶民の信仰を集めるようになって現在に至っています。飯縄信仰については拙書にも詳しく述べていますが、これにつきましても徐々にお話しいたします。

 
武州高尾山の飯縄大権現尊顔。本場信州では「飯縄三郎天狗と荼枳尼天の合体神」と考えられている

*1『武蔵名勝図会』 植田孟縉が『新編武蔵国風土記稿』と平行して著した本。文政三(1820)年に完成。昌平坂学問所へ献上したのが1823年ですが、江戸時代には刊行されませんでした。「武蔵」の名がついているが、内容は多摩地区に限られている
*2『新編武蔵国風土記稿』 天保元(1830)年、江戸幕府が調査、編集した資料で、江戸時代には未刊行。編纂作業は、湯島聖堂の昌平坂学問所・地理調所だが、多摩・秩父の編纂には植田孟縉が係わっている。私の手元にあるものは平成八年六月に復刻されたもので、雄山閣から発行された全十二巻
*3『高尾山誌』 逸見敏刀著/上田泰文堂/昭和二(1927)年十月発行。100ページほどの小冊子だが、内容は高尾山の地理、歴史、動植物、登山の手引き、コース、薬王院行事などにまで及び、当時としては画期的な総合ガイドブックだと思われる。昭和二年は浅川駅(現JR高尾駅)近くに多摩御陵が造営された年でこの時から高尾山も注目され始めたという
*4『高尾山薬王院』 高尾山薬王院監修/相原悦夫著/百水社 今でも境内のお札授与所(売店)で入手できます 
*5『高尾山』 昭和五十三(1978)年、大本山 高尾山薬王院 高尾山報 編集発行。価格もありませんので非売品と思われます
*6『高尾山の神霊碑と修験』 縣敏夫著/平成十六年『野仏・第35集』多摩石仏の会発行
*7『高尾山薬王院文書を紐とく』 村上直・編著、外山徹、岩橋清美、吉岡孝著/ふこく出版
*8『高尾山の記念碑・石仏』 縣敏夫編著/平成十九(2007)年、高尾山薬王院発行。A4版326頁にわたり、山中の板碑や石仏を網羅・解説した労作
*9『武州高尾山をめぐる庶民の信仰』 八王子資料館編集/八王子市教育委員会発行/平成十五(2003)年
*10『多摩歴史散歩1 八王子 多摩丘陵』 佐藤孝太郎著/有峰書店新社/昭和四十八(1973)年

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