第三話 飯縄大権現とはどんな神仏か
像容とご利益の変遷

 高尾パークボランティア会・歴史探訪グループの勉強会で資料を作りました。多少の追加・改訂を加えてあります。
ここに登場する飯縄権現やダキニ天関係のおふだは「ご利益GOODS/おふだ/飯縄系」に掲載しているものと一部、ダブっています。

●像容から見る飯縄大権現

 高尾山薬王院のご本尊である飯縄大権現の像容は、秋葉山(現在は可睡齋)の「秋葉権現」、大雄山最乗寺「道了尊」などと非常に似ている。他にもこの像とほぼ同じ姿で別名の神仏には、小生の知る限りでも秋田県・太平山三吉権現、長野県・戸隠公明院の不動明王、茨城県・加波山岩切大神、静岡県・富士山高鉢権現(富士太郎)、岡山県・児島吉祥坊などがある。いずれも修験道の行場である。
 これらの像は一般に「飯縄系」とか「ダキニ系(後述)」などとよばれ、いわゆる一般の天狗像、不動明王像とは区別されている。しかし、基本的には天狗の神格化と見なされており、「秋葉権現」や「道了尊」にしても縁起を見ると共に高僧が一山を守護するために「天狗」と化している。
 秋葉権現の前身は13世紀末、越後国栃尾・蔵王堂で不動三昧を修した三尺坊周国という僧で実在した人物といわれる。道了尊の方はその約100年後、三井寺圓城寺の勧学僧だったが、同郷の了庵禅師が大雄山を開創すると聞き及び、天狗と化して馳せ参じたという。
  高尾山・飯縄大権現との共通点は嘴の付いた天狗の顔(烏天狗)、白狐に乗り宙を駈け、羂索(けんさく=縄状の武器)を持ち、火炎を背負っているところなどである。しかし、これらの像もよく調べてみると(特に多くの飯縄像が残る戸隠地方のものだけを比較しても)微妙な違いが見えてくる。この違いについては本文中で触れていく。
 ところでその違いが起きた第一の原因は…本来の仏像・仏画の像容は全て教典などに示されており、それに基づいて制作されているのだが「これらの権現像は教典に登場していない」つまり、ある程度作者のイメージによって自由に造られてしまった。第二の原因は…信仰形態を統一する組織が組まれず、まとめ役が不在だったことによる(後述)。中でも秋葉信仰は秋葉権現の本体である三尺坊の出生談や出身地から飯縄信仰と深く関わっており、この二体の権現像は同一視されている場合も多い。少なくとも秋葉信仰は飯縄信仰の分流と考えて差し支えないと思う。

「秋葉(三尺坊)権現」。小蛇が狐の前後脚に絡む。 「三尺坊」のご本体で天狗の相をしている。戸隠山秋葉会のふだ。 大雄山「道了尊」。剣の代わりに金剛棒を持つ。 江戸時代まで配られていた長野・飯縄神社里宮(現・皇足穂神社)のふだ。小蛇は狐の後脚に絡む。 武州高尾山のふだ。小蛇は権現の手足に絡む。

 もともと権現(明神)という概念は神仏習合思想、本地垂迹説から生まれたもので、修験の山を守護する権現の多くは平安〜室町時代に修験者が湧出させたものであり(役行者が感得したと伝えられる蔵王権現は奈良時代の登場で、別格としても)、特に神仏を合体させた「飯縄・ダキニ系」権現は和製のオリジナル神といえる。
 それぞれの縁起の記載によれば、飯綱山の飯縄明神は天福元(1233)年、秋葉権現は永仁二(1294)年、高尾山における飯縄権現は永和年間(1375〜1378)、道了尊は明徳元(1390)年に登場した。

 ところで「飯縄・ダキニ系」権現の像容に大いに影響を及ぼしているのが「不動明王」と「ダキニ天」である。権現の持ち物(降魔の剣と羂索)、服装(裳と条帛)、火焔光(カルラ炎)などは不動明王のものであり、狐はもともとダキニ天の乗り物である。嘴と翼は天狗のものであることはいうまでもない(これをカルラ天と結びつけようとする説もあるが、天狗と修験の深い関係を見ればいささか無理がある)。ただし飯縄権現像には僧形や修験者の顔のもの、童子形もある。また、将軍地蔵のように馬に乗る像もあるが、これについては後述する。
 ダキニとは「荼枳尼」などとも表記され、豊川稲荷、最上稲荷、祐徳稲荷の祭神である。高尾山の福徳稲荷の祭神もダキニ天である。ここでは詳しく述べないが、大黒天と同じようにインドではダーキニーという女夜叉だった。白狐に乗り、狐(野干)を眷属としたことから日本では稲荷(もともとは稲を担って狐を連れた翁形)と習合し福神とされ、弁財天(龍蛇、宇賀神との関係が深い)とも習合して美しい女神像として表現されるようになった。飯縄権現に小蛇が絡まっているのは弁財天との係わりを現している。
 
平安末から室町時代にかけてダキニを奉じる「ダキニ天法」を修得すれば半年先の人の死を知ることができ、さらには過去・現在・未来において通力自在になると信じられ全盛を誇ったが、江戸時代には邪法として弾圧された。ダキニ天法の亜流である「真言立川流」も壊滅した。

上:豊川稲荷のダキニ天像。稲荷神らしく剣は持たず、稲穂を担いでいる。
羽田・穴守稲荷の「穴守大神」も明らかにダキニ天である。手には宝珠と稲穂を持つ。
伊勢朝熊岳のおふだに描かれたダキニ天は稲束ではなく剣を持つ(近藤弓子氏による模写)。
大阪市立美術館蔵の三面ダキニ天曼荼羅(部分)。向かって左は「弁財天」、右は「歓喜天」で、多数の小蛇を絡め、背には翼を持つ。
戸隠神社蔵の「勝軍地蔵(愛宕大権現)」で馬を引くのは天狗である。
青梅市梅郷下山八幡神社の木造飯縄権現像。馬に乗っている珍しい像だが、勝軍地蔵の像容の影響といわれている。

 結論を述べると「飯縄・ダキニ系」権現の像容は、修験者が奉じる「不動明王」と「ダキニ天」に、山岳信仰の権化である天狗をミックスさせたものである。
 話が前後するが、最初に飯縄明神を現在の形で感得したのは、飯綱山麓(水内郡)の城主であり修験者だった伊藤豊前守忠縄とその子盛縄といわれている。盛縄は後に千日太夫(せんにちだゆう)とよばれるようになり「飯縄の法」を確立するが、当初の飯綱山は上杉方の領地であった。弘治三(1557)年に武田信玄方に降伏し、やがて仁科姓を名乗り、家系は明治初期まで続く。しかし飯縄信仰そのものは武田(『飯縄の法次第』という書を持ち、子の勝頼に伝えている)、上杉(兜の前立てに飯縄権現像を使用。現在2種残る)、北条をはじめ足利、細川、九条など多くの武将や公家の信仰を集めたにもかかわらず、神領の規模はわずかに50〜70貫と少なく(江戸時代でも朱印100石程度)全国規模で修験組織を統括したり、独自の修法次第や祭文、儀軌類などを整備する力はなかったといわれ、これが結果的に「飯縄・ダキニ系」権現の像容が統一されなかった大きな理由となったようだ。

●利益から見る飯縄信仰の変遷

 「飯縄・ダキニ系」権現像は真言密教のみならず天台宗や曹洞宗でも見られる。しかしそのほとんどは一山の守護的役割を与えられ、本尊に対して「従」の地位に甘んじている。これは前身が天狗だったという過去を引きずっているからに他ならない。
 神仏習合の土壌から生まれている神仏ゆえ当然、神社でも「飯縄(綱)明神」として祀られる。ところが「飯縄神社」と名乗っているが祭神は「稲荷神」つまり「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」や「宇賀神」などの場合がほとんどだ。これも、飯縄信仰が組織化されていなかった結果である。飯縄系の神を祭っている寺社は全国に500以上あるが、薬王院のような人気寺院の本尊が飯縄大権現というケースはきわめて稀である。なにしろ全国「飯縄神社」の惣社ともいうべき長野市富田380(荒安)の飯縄神社里宮でさへ明治に改称させられた正式名称は「皇足穂命(すめたるほのみこと)神社」で現在は穀物の神を祀っている次第である。
 いずれにせよ「飯縄・ダキニ系」権現は教典に登場するような神仏ではなかったので、信仰形態には救済・成仏・悟りなどという教理哲学はあまり感じられない。
  高尾山の場合は現世利益(病気平癒)の本尊「薬師如来」がまずあり、中興されて密教寺院となった後は「大日如来」「不動明王」を本地としながらも飯縄大権現の威神力を唱えた上で祈願本尊としているにすぎない。護摩供修法も「不動明王」に対するものとほとんど同じである。つまり飯縄信仰(薬師信仰ともに)は何を根拠にここまで繁栄し、存在し得たかというと、ただただ「現世利益への祈願」だった。

 ところで、戦国時代の修験集団は一山に留まることなく、全国規模に拡大しており、各地の領主にとっては無視できない勢力となっていた。そこで修験と武将は互いに・武神を奉じることによって結びつきを強くする。つまり領主が寺社に朱印地を与えたり安堵する代わりに修験は戦神・武神に戦勝や怨敵調伏を祈念し、全国組織を利用して領主に最新情報を提供するという関係である。
  上杉の毘沙門天は有名だが、他にも摩利支天、弁財天などが戦神として信仰されていた。中でも特に武将の間で信仰されていたのが後に家康も江戸に勧請した「愛宕権現(本地は勝軍地蔵)」であり、修験者から通力自在の神として信仰されていたのが「ダキニ天」であった。余談になるが直江兼続の「愛」は「LOVE」の意ではなく「愛宕」である。崇拝する謙信の旗印が「毘沙門天」の「毘」だったことを考え合わせれば明白である。
 「愛宕の法」は天狗を祀る呪法、「ダキニ天法」は狐を使う呪法として平安時代から知られ、怖れられていた。これらを修して怨敵調伏や一族の繁栄を祈ったのである。他にも「五大明王法」や「泰山府君法」「摩利支天法」などをはじめとした修法は数多くあったのだが、やはり時勢に応じた修法が常に求められていたのかも知れない。その一例が高尾山における「飯縄大権現」の奉祀であった。高尾でも少なくとも十六世秀憲の時代まで「飯縄の法」を使っていたことが縁起に書かれている。

 じつは「飯縄の法」はこの「愛宕の法(天狗)」と「ダキニ天法(狐)」をミックスして誕生したと考えられる。それゆえ飯綱山・飯縄明神の本地も勝軍地蔵である。勝軍地蔵は甲冑を身にまとい馬に乗った地蔵菩薩であり、日本のオリジナル仏らしいが、勇ましいだけでなく死後の面倒まで見てくれそうで、いかにも武将好みである。

 また、愛宕山には太郎坊という天狗がおり、飯綱山には三郎坊という天狗がいることも好都合だったであろう。使役獣にはダキニ天の白狐の代わりに飯縄では「クダ狐」を登場させた。狐といってもオコジョなどの鼬科の小動物だったのではないかと推測されている。
  現代人からみれば、行者が使役獣=憑き神を使うなどということは子供騙しな修法と思われるかも知れないが、これは陰陽道における「式神」、役行者における「前鬼・後鬼」、不動明王における「三十六童子」などと同根の発想である。「飯縄の法」の実態は今となっては不明だが戦国の時勢に応じて魔法、忍術、武術の要素を含んでいたらしい。ただ、江戸時代に入ると山から下りて里に定着した低級な修験者や巫女、拝み屋などの祈祷に利用されて「狐憑き」や「手品」のレベルまで堕落した。政府から禁じられたにもかかわらず、彼らは「イヅナ使い」とよばれ、「狐持ち」などという家筋の迷信や社会問題を生み出し、昭和の時代まで悪習を残した。

 ところで天文十五(1546)年に記された叡山文庫蔵『飯綱山廻祭文』には、その時代の利益を「福徳を得る」「福祐に生まれる」「火難を遁れる」などとしているが、同じく叡山文庫の『飯縄祭文』にはもっと具体的に @ 刀杖(とうじょう)の難を除く A 師君(しくん)の機に叶う B 妻子眷属和合たり C 虚名口舌(きょめいこうぜつ)の難をちがゆる D 戦場に利徳あり E 沙汰心論に勝つ F 敵を滅ぼす G 病患を除て延命なり H 田畠地を領す I 失火盗賊の難を遁るる J 七珍万宝(しっちんまんぽう)を得る K 福祐満足たり L 呪詛悪霊の祟りなし と書かれている。これを見る限り飯縄神が当時は戦神・武神であったことが確認できる。

 一方、高尾山薬王院の縁起となると、残っている一番古い記載は『新編武蔵風土記稿』に紹介されたもので、寛延二(1749)年、徳川吉宗の時代に書かれている。第二話でもご紹介したので内容はそちらを参照していただきたい。
 ここでは特に利益を謳っているわけではないが、飯縄大権現が登場した理由が語られている。ただし、この時点でそれまでの本尊であった薬師如来がにわかに窓際仏になってしまったわけではないらしい。
  江戸時代の享保五(1720)年から現在まで書き続けられている『石川日記』に残された高尾山への参拝目的を調べてみると(まだ全巻の統計を取ったわけではないが)だいたい @ 雨乞い等の天候関係  A 病気治癒(疱瘡、赤痢、眼病など) B お礼、法事 C 火難除け という具合で、特に明治期の統計を見ると「雨乞い等の天候関係」祈念が半数を超えて群を抜いており、「火難除け」はわずか一割程度となっている(『武州高尾山をめぐる庶民の信仰』)。『石川日記』は山麓の農事日記といえるので地元では飯縄信仰より、薬師信仰の傾向が強い。さらに、つい最近まで「蚕守」「鼠口留秘符」が養蚕農家に出されていたことも注目すべき点だ。
 時代は戻るが北条氏の文書を見ても宛先は「薬師堂」「高尾山」となっており、当時から「飯縄堂」が薬王院の中心ではなかったことがうかがえる。
 次に、天保四(1832)年に薬王院から寺社奉行に提出された『由緒書』には縁起や薬王院のご利益が書かれている。ここには「諸病悪除怨敵退散」「息災延命福寿」「上ハ国家安全武運長久、下ハ五穀豊穣万民」などの文字が並ぶが、特に「別して火防の守り神として火難を消滅し給ふ」の文言が目を引く。つまり対外的、対江戸市中に対しては飯縄信仰を強調していたようすがわかる。

 江戸時代における「愛宕権現」「秋葉権現」は京都、大坂、江戸などの人口が集中し始めた大都市の「火防の神」となり、その必要性から一大ブームを引き起こす。JR秋葉原駅の名もその名残だ。もちろん火を自由に操ると信じられていた「天狗」が祭神だからである(明治以降は同じ火の神である火之迦具土神=ほのかぐつちのかみを祭神とするが)。
  高尾山ではどうだったかというと、江戸市中からの参拝者は全体の1/4程度だったとはいえ、やはり経済的に無視できぬ存在であった。盛んに居開帳、出開帳を行うと同時に享保十四(1729)年には壮麗な飯縄権現堂を建立し、それまで中心的または並立的役割を担っていたと思われる薬師信仰から、いよいよ本格的に飯縄信仰にスライドさせていくようになった。しかし江戸において「火防の神」としての飯縄権現が、秋葉権現の人気を上回ったという記録は未見である。

 また話が前後するが、高尾山人気の要因として、戦国期に北条氏が浅間神社を勧請したことを忘れてはならない。これが江戸時代中期以降、続々と誕生した富士講による富士参拝の恩恵を大いに受けたのである。
 ところで現代の利益となると、平成になって薬王院から出版された『高尾山薬王院』や『高尾山略記』に周知のごとく  @ 向背に火焔を負い左右の手に剣と索とを持てるは不動明王の御本誓を現わし悪魔を退治し慈悲の智恵を以て種々の煩悩病苦を焼き尽し A 歓喜天の心を抱きて求むる所の利益を施し B 鴟啄と羽翼ある鳥の姿は迦楼羅天の飛行自在の徳を表わし C 白狐に乗つて荼枳尼天の福を授く D 白蛇を頂くは神の宝珠と弁財天の愛矯を與へ給うなり とあり「歓喜天(三面ダキニ天の一神)」と「迦楼羅天(天狗の代役か)」がいささか強引に加わっている。

 さらに平成期に建立された愛染明王堂、歓喜天堂八大龍王堂などではあからさまに「恋愛成就」「夫婦和合」などの利益を謳っており、おふだ、お守り、おみくじの種類をみても明らかに「万能」化してきた。ご利益の万能化傾向はどの寺社にでもあり珍しい事ではないが、高尾山の場合はまさに福神ダキニ天への回帰現象として「稲荷化」しているといえる。つまり縁起が人の手で書かれるように、現世利益とは神仏が作り出すものではなく、人々が時代に合わせて生み出すものである。飯縄信仰も「戦神」→「火防神」→「万能(稲荷)神」と姿を変えつつある。これは現在進行形だ。

笠間稲荷の祭神は翁形稲荷神とダキニ天形稲荷神の中間スタイルである。 戸隠中社の飯縄神像。顔は不動明王形か…。修験者にも近い。 銅造の飯縄大明神。応永十三(1406)年の銘があり、現存する最古の飯縄神像といわれ『飯縄山廻祭文』の像に近い。長野市松代町永福寺蔵。 上杉謙信愛用の兜の前立。新潟県長岡市常安寺蔵。別の形だが米沢市の上杉神社にもある。

 最後に蛇足となるが近年の薬王院は「修験色」をより強く出す傾向にあるという。寺院主導での「滝行」や、ショウ的要素の強い「火渡り祭」を始めたのはじつは先代三十一世の秀順貫主の時代(昭和三十四年に「高尾山修験道護法会」が編成され、この時から高尾山年中行事の「火渡り」「滝開き」「柴燈護摩供」などの修験修行が行われるようになった)からである(*6『高尾山の神霊碑と修験』)。
 高尾山は修験の山ではあったが修験の組織は持たなかった。したがって薬王院が必ずしも修験の寺院でなかったことは心に留めておくべきであろう。

 

*1『武蔵名勝図会』 植田孟縉が『新編武蔵国風土記稿』と平行して著した本。文政三(1820)年に完成。昌平坂学問所へ献上したのが1823年ですが、江戸時代には刊行されませんでした。「武蔵」の名がついているが、内容は多摩地区に限られている
*2『新編武蔵国風土記稿』 天保元(1830)年、江戸幕府が調査、編集した資料で、江戸時代には未刊行。編纂作業は、湯島聖堂の昌平坂学問所・地理調所だが、多摩・秩父の編纂には植田孟縉が係わっている。私の手元にあるものは平成八年六月に復刻されたもので、雄山閣から発行された全十二巻
*3『高尾山誌』 逸見敏刀著/上田泰文堂/昭和二(1927)年十月発行。100ページほどの小冊子だが、内容は高尾山の地理、歴史、動植物、登山の手引き、コース、薬王院行事などにまで及び、当時としては画期的な総合ガイドブックだと思われる。昭和二年は浅川駅(現JR高尾駅)近くに多摩御陵が造営された年でこの時から高尾山も注目され始めたという

*4『高尾山薬王院』 高尾山薬王院監修/相原悦夫著/百水社 今でも境内のお札授与所(売店)で入手できます 
*5『高尾山』 昭和五十三(1978)年、大本山 高尾山薬王院 高尾山報 編集発行。価格もありませんので非売品と思われます
*6『高尾山の神霊碑と修験』 縣敏夫著/平成十六年『野仏・第35集』多摩石仏の会発行
*7『高尾山薬王院文書を紐とく』 村上直・編著、外山徹、岩橋清美、吉岡孝著/ふこく出版
*8『武州高尾山をめぐる庶民の信仰』 八王子資料館編集/八王子市教育委員会発行/平成十五(2003)年

*9『新修 日本佛像図説』 木村小舟/日本佛像図説刊行會(話の友社内)/昭和二十七年
*10『長野 第31号、第109号』 長野郷土史研究会/昭和四十五年、昭和五十八年
*11『信濃の山岳信仰 展示図録』 長野市立博物館/平成六年
*12『高尾山略記』 大本山高尾山薬王院(中国人向けパンフレットとして再版)/初版は平成七〜八頃か
*13『多摩のあゆみ 第九十九号』 たましん地域文化財団/平成十二年

*14『京都愛宕山と火伏の祈り』 八木徹 編/昭和堂/平成十八年
*15『特別展 飯綱信仰 展示図録』 いいづな歴史ふれあい館/平成十八年
*16『秋葉信仰を考える 講演会資料』 長野県立歴史館 宮下健司/平十九年

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