『そのほか必要に応じて書いた』小論集
高尾駅南口「初沢城と椚田郷の歴史」
('08年1月初稿/'09年3月追加)

 パークボランティア会の自然教室「高尾山麓・ゆっくりドキドキ巡り」の下見で、スタッフと共に高尾駅南側の初沢城趾(初沢山)、浅川壕、みころも公園周辺を調べているうちに、とても狭い地域内であるにもかかわらず、平安時代末期から現在に至るまでの、おおざっぱな歴史の流れが見えてきました。…で、何が見えたかといいますと、じつはこの地域は「時代の流れの中で、なぜかいつも不本意ながらも敗者側に立ってしまった地域」だったのです。

 きっかけはスタッフの一人が、八王子図書館で調べてくださった数枚のコピーを私にくださったことから始まります。
 それは、当時は多摩中央信用金庫(現在は 財・
たましん地域文化財団)が発行していた『多摩のあゆみ』第7号(昭和52年5月発行)掲載論文・湯山学氏の「武蔵横山庄の領主 大江姓長井氏の最後」でした。

*その後、この地域に関する参考文献は多数見つかりましたが一覧は最後に記載しています。
*記載に関しての不都合がございましたらご一報ください。また、検証も浅く独りよがりな論文ですので誤りの個所やご意見等ありましたらご教示をいただきたく存じます。



● 初沢城とは

 最高地点・海抜295mの初沢山は戦国時代、武蔵国・西部地域における重要な戦略拠点と見られていたようです。したがってここには山城(砦)が築かれ、中世には城山とも峯山ともよばれていました。初沢城=椚田(くぬぎだ)城の要図は『多摩の歩み 7号』と『高尾界隈 3号』、
『よみがえる滝山城』、『多摩歴史ウォーク(「関東武士ゆかりの址を訊ねる」風土記に見る初沢城址を歩く)』の資料などに掲載されています。(ページ最後に私の作成した探索プレイマップも載せてあります)

 この砦の築城年代は明らかではありませんが、築城手法から見て15世紀末期(足利・室町時代)と考えられています。山頂に主郭、東北艮=うしとら)に向かう支脈の先端部(現・高尾天神社上)にも郭跡や堀切・削平地があり、山の東北方面(高尾・八王子方面)の守備を固めるための砦だったらしいということです。
  この遺構については文政十一(1828)に幕府によって編纂された『新編武蔵国風土記稿』に書かれています。この地域(多摩・秩父郡)の担当はすでに文政三(1820)年に『武蔵名勝図会』を著していた八王子千人同心組頭・植田孟縉(うえだもうしん)です。以下に初沢城に関する記載文(多磨郡之十四下)をご紹介します。

城墟 総門(高乗寺の)の東の方なる山を土人(土地の者)城山とよべり、登り二町(=二丁=約218メートル)ばかり、その頃は平坦にして乾(いぬい=西北)の方より巽(たつみ=南東)の方にわたり、長さ半町(約54.5メートル)あまり、幅は廣狭あれど、大抵十二三間(約22〜3メートル)ばかり、北の隅には妙義の小祠あり、頂より巽(たつみ=南東)の方へ数十歩を下り、曽根(=嶺)の高所を疏鑿(そさく=穿ち通す)し、道を通ぜしところあり、坤(ひつじさる=南西)方の山面中腹に、七八間(約13〜15メートル)を隔てゝ、その幅三間許にきりひらけたる所二段あり、乾(いぬい=西北)の方にも切通しと覚しき處あり、それより少し下りて馬冷し場と唱へ、四五歩窮地あり、されど水ある所とも見えず、艮(うしとら=北東)の方はやまくづれていと峻しくそばたてり、按にこのところ物見櫓など構へしにや、居館は艮(うしとら=北東)の方山の麓小名狭間にありしならんと云へど、何れの人のこゝに住せしや傅へを失せり、一説には往昔椚田氏の人居住すともいへり、椚田は横山党より出で、横山権守時重の四男、太郎重兼はじめて此椚田に居を構へしより、その子次郎廣重代々この地に住せしゆへ、子孫椚田を氏とせし事ものにみえたり、また一説にはこの寺(高乗寺)を開基せし長井大膳大夫高乗(長井道廣)が、居城を構へしあとなりとも云へど、今よりかんがふべき由なし」

小原精壽氏作成。『多摩歴史ウォーク第21回自由講座(「関東武士ゆかりの址を訊ねる」風土記に見る初沢城址を歩く)』の資料より転載。
*左下キャプション「中世城郭研究会 田中祥彦氏の資料を基に作成」
協同組合高尾パークハイツ名店会・高尾名店街『高尾界隈 第3号』よりの転載。
*オリジナルは『多摩の歩み7号』に掲載されていたはずなのですが、八王子図書館所蔵の『多摩の歩み7号』からは上に掲載した地図の部分がすでに破かれており、
同好の志がこのようなモラルに反する行為を行うとは非常に残念です。
『よみがえる滝山城』滝山城趾群・自然と歴史を守る会(平成19年度市民企画事業補助金交付事業)/中田正光著/揺籃社/平成十九(2007)年11月発行
22ページより転載

『大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿 第五巻』雄山閣/平成八(1996)年6月発行
203ページより転載

図中央よりやや下に高乗寺の総門が見えます。谷の奥が高乗寺。谷沿いに流れている川は初沢川。総門の左奥に隆起している山塊が初沢山(城山=椚田城)。手前の大木は楓で、周囲3メートル60センチほどあったという。


● 初代城主は椚田氏? 

 平安時代後期から鎌倉時代にかけ、武蔵国多摩郡横山庄を中心として武蔵〜相模国北部に勢力を張っていた同族的武士団が「横山党」です。現在でも八王子駅の北側に横山町、元横山町の名が残っています。
 その首領である横山権守時重の四男、大郎重兼がこの椚田の地に居を構えたといいます。その子次郎広重より代々椚田氏を名乗ってこの地に住んだので、当時このあたりは横山庄椚田郷、あるいは椚田谷とよばれていました。
 この椚田氏が初沢城の初代城主ではないかという説は上記『新編武蔵国風土記稿』などに出ています。

● 横山党とは? 
 横山党とは当時「武蔵七党」とよばれた武士団の一つでした。武蔵七党とは平安後期〜鎌倉・室町時代にかけて武蔵、下野、上野に勢力を伸ばしていた小領主の同族的武士集団です。
 当時は朝廷から使わされた国守の子孫がそのまま土着し、土地を守る武装集団となって武士化していくケースがよくありました。平将門がその代表です。
 中でも武蔵では八王子周辺を拠点にしていた横山党は武蔵七党随一だったらしく、万葉集にも「赤駒を山野に放しとりかにて多摩の横山かしゆかやらん(多摩の横山に放し飼いにされた馬によせ、防人として九州に旅発つ夫の姿を詠んだもの)」と歌われたほどです。横山の小野牧(牧場)は献納のための良馬を産していました。
  横山党は小野篁(おののたかむら。802〜853年)を祖としており、小野の名にちなみ自らを「野太郎」「小野太」などと名乗っていたそうです。
 『新編武蔵国風土記稿』に書かれた横山党略系図によりますと、参議小野篁は敏達天皇八代之後裔で、その八代の孫が従四位武蔵守隆義男、その子義孝が武蔵権守となって数代を経て前出
横山権守時重に続くのです。この系図の他にも小野孝泰、諸興などの名が資料に見えますが詳しくは不勉強のためわかりません。が、横山党は自前の良馬・駿馬を駆使し、京都まで遠征するなどして鎌倉幕府成立の基盤を作ったということは確かです

 ちなみに武蔵七党にはほかに
・西党:拠点は多摩郡五日市あたりか。日奉宗頼を祖としている
・児玉党:埼玉県秩父・入間・大里・児玉郡。有道維行=藤原遠峯を祖としている
・野与党:埼玉県鴻巣あたり。平忠常の弟、胤宗の子・基宗を祖としている
・村山党:東村山、小平あたり。野与党から分岐
・私市党(きさいち):埼玉県私市村。開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔・日下部氏を祖としている
・丹党:群馬県吉井あたり。宣化天皇の末裔・武信を祖としている
・綴党(つづき=都筑党とも):横浜市都筑区周辺
・猪俣党:埼玉県那珂郡。横山義孝の弟・時資(横山介三郎)を祖とする
などがあり、実際には七党以上の名が知られていますが、彼らは互いの勢力範囲を協定して平和共存していたといいます。


 小野篁は遣隋使・小野妹子(「日出づる国の天子、日の没する国の天子に書を致す」で有名な新書を)の子孫で平安時代前期の官人・学者・歌人として名を馳せましたが、一時は遣唐副使に任命されながらも乗船を拒否、さらにその制度を批判した罪で嵯峨上皇の怒りを買い、一年間ほど隠岐に流されたこともあるほどの反骨精神の持ち主だったようです。それゆえ異名は「野相公」「野狂」などとよばれ、幼い頃から父に従い陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと伝えられています。一説には冥界にも顔がきくといわれたほどの奇人的側面を持ち合わせていたということです。
  子孫には書で名高い小野道風、才色兼備な小野小町(篁の孫にあたるともいわれています)がおり、この血筋は優秀な人材を多数輩出しています。

● 横山党と椚田氏の没落 
 その後、椚田氏は横山一族と共に1213(建暦三=健保一)年、鎌倉幕府の二代目執権・北条義時に対して挙兵した和田義盛方(横山太郎重兼
の姉が和田義盛の妻となっていた)に付き鎌倉の由比ヶ浜で戦いますが、この和田合戦に破れて没落します。『吾妻鏡』によれば、この戦いで椚田太郎、次郎、三郎、四郎、五郎、又五郎らが討ち死にしたということです。

 和田義盛は源頼朝に早くから従い、数々の手柄を立てたことで名高い武将です。頼朝が征夷大将軍に任ぜられた時の侍所(武士を取り締まる役目)の長官になるほどでした。戦上手でしたが無遠慮なところも多かったといいます。しかしご家人仲間(幕府に従う武士集団)の間では人気が高かっただけに、執権として実権を握った北条義時の策略に追いつめられ、やむなく挙兵します。この頃の北条家は内部抗争が激しく、和田義盛も横山一族(党首・時兼以下、椚田氏を含む三十余家)もその巻き添えを食ってしまったわけです。
 しかし没落したとはいえ、1232(貞永一)年、北条義時の後を次いだ執権、北条泰時が作った武士のための法律『御成敗式目(貞永式目)』の策定ブレーンとして関与した中条家長という人物は横山党から出たということですから、残った一族の中でも優秀な人材はしっかりと起用されていたようです。

● 大江姓長井氏の台頭 
 和田義盛が滅ぶと、やはり鎌倉幕府の重臣で 北条義時サイドに付いていた大江広元の一族(同族に毛利氏がある)が武蔵国横山庄を治めるようになります。ここ初沢城には、大江氏の嫡流(大江広元の子孫)である大江姓長井氏(以下長井氏)が入ってきます。
  長井氏の居城は片倉城(京王高尾線、JR横浜線片倉駅)として知られていますが、城主の長井道廣(長井大膳太夫高乗)は1390年に広園寺、1394年には初沢山の麓にある高乗寺を建立しています。現在見られる初沢城跡は前述のように、この時代の手法で築城されているということですから、この長井道廣との係わりが特に深かったと思われます。

 ところで、大江広元(1148〜1225)は、かつて朝廷に仕えていた下級役人でしたが頼朝に重用され、鎌倉幕府で政務一般をあずかる公文所の長官となった人物です。また、腰越に差し止めされていた源義経から、兄・頼朝への手紙「腰越状」を託された人物としても有名です。若い三代将軍実朝にも仕え、実朝の官位を熱望する姿勢を諫めたほどの重臣でした。

● 山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争
 鎌倉時代から室町〜戦国時代に移ると関東地方には上杉諸家が台頭してきます。北条氏の政権に引き続き、足利幕府に従った長井広房はその上杉諸家の一つである扇谷(おうぎがや)上杉氏から妻を迎えます。その関係で長井氏は扇谷上杉氏の一族となります。その子が後に初沢城の守将となる長井広直だと思われています。

 上杉家とは足利尊氏・直義兄弟にとって母方の叔父にあたる上杉重顕を祖とした家柄ですから、代々関東管領職(幕府を補佐して関東の政務を司る)を務めるようになりました。重顕の一族は鎌倉の扇谷に居館を置いたことから扇谷(おうぎがや)上杉氏とよばれました。一方、上杉重顕の弟の一族は鎌倉の山内に居を構えたことから山内(やまのうち)上杉氏とよばれます。しかし事実上はこの山内上杉氏が関東管領のほとんどを独占していました。一方の扇谷上杉氏も太田道灌を擁するようになってから武蔵国を拠点に南関東に勢力を伸ばし始めます。
 ところがその太田道灌が謀殺されると両家はその後十数年に渡って抗争を繰り返し、「関東分裂」といわれる状況が始まります。

● 大江姓長井氏の滅亡 
 長井氏は、永享の乱(1437〜39。関東に於ける鎌倉公方と関東管領の諍い)・嘉吉の乱(1441。関西における守護と鎌倉幕府の諍い)では長井三郎、六郎、八郎などの名を残しており、椚田塁を守衛していたということです。
 そして1504(永正一)年9月、多摩川周辺を戦場にして山内上杉顕定(あきさだ)と扇谷上杉朝良(ともよし)が戦います。現在の立川市と日野市が接するあたりだと思われますが、この「立河原(たちがわら)合戦」に際して、扇谷上杉氏サイドの被官(家臣)に長井八郎という人物の名が見られます。この長井八郎が上記の人物と同一なのかはわかりませんが、この時、長井一族は婚姻関係のある扇谷上杉氏サイドに与していたというわけです。
 同年12月には山内上杉勢が武蔵、上野、相模に進撃。この時、初沢城の守将だった長井広直(古文書では大江姓ですが、ここではまぎらわしいので長井氏と表記します)が一族二十数名と共に討死にしていることが前出『多摩の歩み』7月号に書かれています。長井広直の三十三回忌の供養が行われたという記録が残っているのです。
 ちなみに前出・長井八郎はこの時捕虜になったということです。『松陰私語』という記録書には、この長井八郎も椚田城の守将であったと書いてあるそうですが、この武将と長井広直との関係は不明です。そして八郎は捕虜となり広直は上記のごとく討死とありますのでこの二人は同一人物ではないようですが、いずれにせよ八郎、広直共に長井氏の一武将だったことは間違いありません。

● その後の上杉家 
 ところで、長井広直の供養が行われたということは長井一族が全く滅亡したわけではなかったわけで、実際にこの供養を執り行った僧は広直の子であったということです。

 一方、上杉家の方はといいますと、両家が抗争を繰り返している間に、北条早雲(後北条氏または小田原北条氏とも)が台頭し、小田原に入ってきます。上杉家はこの後北条氏にじわじわと領地を切り取られていき、まず山内上杉氏が北条早雲の傘下に入ります。この頃、八王子近辺の滝山城には山内上杉家の重臣で武蔵国守護代だった大石家が入っていました。
 そして早雲の斡旋で両上杉家は和睦することになりますが、結局1546(天文十五)年、河越の夜戦において両上杉家は後北条三代目の氏康に破れます。
 そして扇谷上杉氏は滅び、山内上杉氏は家督と管領職を手みやげに越後に逃れて長尾景虎を頼り、上杉の名を継いだ景虎は名を上杉謙信と改めたわけです。

● 北条氏照の登場と最期 
 この上杉諸家を滅ぼした北条氏康の次男が、やがて八王子城に入る北条氏照です。氏照は山内上杉家の重臣だった大石家の比佐のもとに婿入りします(このとき氏照は由井源三と名を改める)。大石家が家の存続のため、北条氏に滝山城と武蔵国守護代の座を譲ったわけです。ちなみにこの大石家と、後に名をはせる赤穂の大石内蔵助は遠縁に当たるということですが真偽のほどは未だ調べておりません。

 さらに話が逸れますが、後北条家の発展に大いに力を注いだ氏照はその後、後北条家を守護する誓願を立てて女性を断ちます。そのため妻の比佐は夫を怨慕するあまり自害するという悲劇が起きました。これは氏康・氏照親子が篤く高尾山の飯縄大権現(飯縄大明神)を信仰していたためです。
 飯縄大権現は戦国時代には軍神として武田信玄や上杉謙信、この北条氏照などの武将に信仰されていました。そしてこの神を奉じる「飯縄の法」修得のためには女性を近づけてはならないとされていたのです。一説では上杉謙信が生涯女性を近づけなかったのも、飯縄大権現を奉じていたからだと伝えられています。

 話を戻します。結局、後北条一族も1590(天正十八)年、信長の死後に天下統一を目指す豊臣秀吉に最後まで従わず、氏照を含む北条氏は小田原城で滅びるのですが、この時八王子城を攻めたのは越後や信濃の北国連合軍でした。そこには前田利家・利長、真田昌幸らの武将と共に、山内上杉氏の流れを汲む上杉景勝の名が見られます。つまり間接的ではありますが氏照は河越の夜戦の仇を取られたというわけです。

● その後の椚田郷 
 ついでながらこの小田原合戦で、後北条方の伊豆の拠点であった韮山城を守っていた武将は氏政・氏照らの弟、氏規でした。開戦以来、豊臣方の徳川軍に攻められながらも長く抵抗を続けていましたが、八王子城が落城した翌6月24日に降伏します。敗戦後、氏規は氏政・氏照らの切腹の介錯を務めた後に高野山へ追放されます。

 一方、韮山の無血開城に力を尽くしたのが、後に代々韮山を拠点として江戸時代には後北条の領地であった伊豆、甲州、武蔵、相模などの代官を務めることになる江川氏です。この江川氏三十六代目江川太郎左衛門英龍(江川担庵)が天保年間(1830〜1843)に高尾山に植林した杉は今でも「江川杉」とよばれて高尾山頂付近で見ることができます。
 ちなみに江川太郎左衛門は、江戸末期に福井嘉平という剣術家が飯綱山中で飯縄大明神から奥義を伝授されたという剣法「神道無念流」の使い手でもありました。

 そして江戸時代になり半農半士として横山の地に入ってきたのが武田氏の武士集団であった「千人同心」です。

● 戦を見続けてきた椚田郷 
 こうして戦国の世が収まると初沢城はその砦としての役目を終えたかに見えました。
 ところが、昭和の時代に入り太平洋戦争も敗色が濃くなると、この地域一帯に地下壕を掘る計画が持ち上がります。これが「浅川地下壕」です。多くの朝鮮人の人達が労働者として集められ、昭和19(1944)年から翌年の敗戦を迎えるまで短期間でご存知のような壮大な地下壕が堀進められました。1100人の強制労働者が集められ、完成した「イ地区」だけでも全長4800mあり、トラックが充分通れる広さがあります。「イ地区」は長井道廣が建立した高乗寺の旧境内にあります。他に「ロ地区」「ハ地区」がありますが、敗戦により作業は中断されます。しかし、この「ハ地区」は、なんと初沢城跡の下に掘られているのです。
 
 考えてみますとこの地域は、常に人々の争いに翻弄され続けた歴史を背負ってきたわけです。しかも皮肉なことにいつも負ける側に付いていました。そして以上の経過をざっと追ってみますと、初沢城の領主達はいつも自ら戦いを望んだわけではなく、歴史のうねりに翻弄され続けてきたような印象を受けます。
  歴史はおおむね勝者側の記録しか残されませんから、長い間、椚田郷の歴史も忘れられていました。しかし、この地は平安の時代から、ずっと人々が争う姿を見続けてきたのです。しかも一般庶民の歴史はほとんど残されていません。しかし、ある意味で幸いなことに私たちは初沢山にかすかに残る主郭跡の削平地や愚かな徒労に終わった浅川壕を見ることが出来ます。そして、ここで強制労働させられた人々がいたという記憶が残されています。

 初沢城趾は今でこそ市民の憩いの場となりましたが、私たちはついこの前の悲惨な歴史さえ、忘れそうになっています。敗戦の歴史は学校でも正しく教えていないのです。もう二度と無駄で愚かな戦いの場にならぬよう、我々で歴史と記憶を伝え、守らなければならないと思います。
 ここは、まさに「国敗れて山河あり」の戒めを学習させてくれる貴重な場所なのです。
 とはいえ今は山河すら消えようとしている時代ですが、これは致し方ないことです。遅々として進まないかのように見えた自然保護運動は地球温暖化などの深刻な問題とリンクして既に国家規模で多くのプロジェクトが立ち上がっています。人々の「自然を残さねば」という意識はずいぶんと高まっています。
 しかし、反面「記憶」を残すことの大切さは軽んじられているのではないでしょうか。
 この狭い地域の歴史ですら、私たちに多くの警告を与えてくれるような気がするのですが…。


代々の初沢城周辺支配者

●椚田氏:平安後期。横山党嫡流で祖は小野氏。鎌倉時代に和田義盛に与し、北条義時に敗れ滅亡
●長井氏:鎌倉時代。北条義時に与した大江氏の嫡流。扇谷上杉氏と婚姻を結ぶが、扇谷に敵対する山内上杉氏に敗れる
大石氏:山内上杉氏の重臣で武蔵国守護代を務める滝山城主。
●後北条氏:室町・戦国時代。両上杉氏を滅ぼした後北条氏の次男、氏照が山内上杉氏の重臣だった大石氏の婿養子となり八王子に入城
●江川氏:江戸時代。後北条氏を滅亡させた豊臣軍の武将だった徳川家康の家臣、江川氏が当地の代官になる
●日本陸軍:昭和時代。大戦終了直前に、地下工場建設を目的とした大規模地下壕が掘られる


参考資料
『多摩のあゆみ 7号』「大江姓長井氏の最後」湯山学/(財)たましん地域文化財団
『高尾界隈 第3号』協同組合高尾パークハイツ名店会・高尾名店街
『高尾駅界隈』高尾駅南北自由通路促進委員会
『羅生門の怪 異界往来伝奇譚』 志村有弘/角川選書
『八王子城 みる・きく・あるく』峰岸純夫、椚圀男ほか/揺藍社
『よみがえる滝山城』滝山城趾群・自然と歴史を守る会/中田正光著/揺籃社
『多摩歴史ウォーク第21回自由講座(「関東武士ゆかりの址を訊ねる」風土記に見る初沢城址を歩く)』の資料/講師:小原精壽
『多摩歴史散歩1 八王子 多摩丘陵』 佐藤孝太郎著/有峰書店新社
『NHKカルチャーアワー 戦国争乱の群像』舘鼻誠/NHK出版
『江川坦庵』仲田正之/吉川弘文館
『フィールドワー 浅川地下壕』浅川地下壕の保存をすすめる会/平和文化
*飯縄大権現に関して詳しく知りたい方は拙書『スキャンダラスな神々』龍鳳書房 をご覧ください。

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