『かえで(高尾パークボランティア会報)』掲載小論集
「飯縄神を奉じ、婦人を自害に追いやった武将」
No.166('05年5月号)

*この拙論は一部編集抜粋して拙書『スキャンダラスな神々』に発表しています。

高尾山の本尊「飯縄大権現」(左)と、その原型となった「ダキニ天」(右)。

 前号で触れた戦国時代の飯縄信仰とは、密教における「ダキニ天」「不動明王」「弁才天(稲荷・狐信仰)」や「天狗信仰」が習合した武門安寧・合戦必勝・怨敵調伏の呪法である。
 信州・飯綱山で千日太夫(伊藤親子)が、主に「ダキニ天法(未来を予知し望みを叶えられる秘法)」や「愛宕の法(天狗の呪力に訴える秘法)」に武術や原初忍法の要素を加え「飯縄二十法」として大成したのであった。

 しかし当時の国内におけるダニ天は左図(右像)のごとく弁才天をモデルにした天女姿だったので、戦の神としてはあまり相応しくない。そこで強いイメージの烏天狗と不動明王を合体させた飯縄大明神のキャラクターを起用した(左像)。
  そのキャンペーンが功をなしたか、実際に霊験あらたかであったのか、この飯縄大明神は戦の神として足利氏、管領細川政元、関白九条稙通、武田信玄、上杉謙信、遠くは鹿児島の島津家からも祀られるようになった。忍法の祖として伊賀・甲賀衆からも信仰されている。

 この飯縄の法についての伝承は古くからあり『阿娑婆抄』『今昔物語』『宇治拾遺物語』『塩尻』『霊獣雑記』『嬉遊笑覧』『稲荷神社考』などの文献に残されているが、一般には天狗の使う「外法・邪法」または狐(クダ狐)を持ち歩く術者の「妖術・魔法」と見られている。したがって戦乱の収まった江戸時代には禁じられた。

 しかし当初は、この飯縄の法を修める行者は五穀を絶ち、蕎麦粉三升を持参して飯縄山西窟に籠もり二十一日間岩に座して修業したという。また、この法を成就するには女性を近づけてはならず身を清めて修行しなければならないと信じられていた。
  念ずる相手が、本性の恐ろしい女神だったからか、不浄を極端に嫌う天狗に気を遣ったのかはわからぬが、人々から畏怖され、時には狂人扱いされるほど厳しく禁欲的な修行であったようだ。

 ところでここに、飯縄の法を修するためストイックに徹し、その婦人を自害にまで追い込んだ武将がいる。
 その無粋な男とは東国屈指の強者、我らが八王子城主・北条氏照(1540〜90)である。北条早雲が興した後北条氏三代当主・北条氏康の次男で武蔵国・滝山城主であった。聡明で武勇に優れ、若い頃から関東各地を転戦して後北条の勢力拡大に大いに貢献している。父氏康が高尾山の飯縄大権現を戦勝の守護神として崇敬していたこともあり、氏照も戦に臨むにあたり必勝を期するため当地の飯縄大権現に祈誓し、さらに飯縄の法を修得しようとしていた。

「義列百人一首」に描かれた北条氏照。
さすがに強そうだ(『高尾駅界隈』107Pより)。

  氏照は永禄十二年(1569)、同じく飯縄神を奉じていた宿敵武田信玄の二万の大軍に滝山城を囲まれたが、かろうじて落城を免れている。津久井・三増峠の大合戦では武田軍との厳しい攻防の最中、馬上より高尾山を振り返り飯縄大権現に武運を祈ったという。
  その後、この強敵を迎え撃つため城を八王子に移した。高尾山の1号路・城見台からはこの堅固な山城がよく見えたことであろう。

 この氏照には土地の実力者であった大石氏の夫人・比左(ひさ)がいたのだが、上記のごとく飯縄法修得の祈誓によって十年間もの間女性を禁じた。その結果、夫人は夫に対する怨慕のあまり自害してしまったのである。ヒステリーが高じて…という歴史家もいるが、それではあまりにも夫人が気の毒である。
  いずれにせよ、夫人の遺書を読んだ氏照はその心を大いに憐れみ、生涯女性を近づけなかったという。したがって当然子は無く、四代当主の兄・氏政の子を養子に迎えている。

 やがて天下の実権は豊臣秀吉が握ることになるのだが、後北条一族はこれに従わず、天正十八年(1590)秀吉による小田原攻めに対しても氏照は徹底抗戦を主張した。そこで八王子城に僅かな守備兵を残し、自らは北条の本拠・小田原城に立て籠もった。しかし留守を守る八王子城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの大軍に包囲されてしまう。八王子勢は城内に避難した領民等と共に激しく抵抗し、敵方に甚大な被害を与えながらも6月23日に力尽きて落城。この悲報を聞いた氏照は床を叩いて号泣したという。
 一方、小田原城も3ヶ月に及ぶ籠城虚しく7月5日に降伏。7月11日、氏照は兄氏政や数名の重臣と共に主戦派としての責を取られ切腹した。

 ついでながら氏照を介錯したのは弟(四男)の北条氏規(うじのり)であるが、なんと彼は伊豆韮山の城主であった。この城を包囲したのは徳川勢だが、氏規は人質だった家康と幼年時代を共に過ごした旧知の仲である。そしてこの時、韮山城の開城に尽力したのが北条方と徳川方に分かれて相対した江川英吉・英長親子で、二人は高尾で馴染み深い江川太郎左右衛門の9代・8代前にあたる。やがて江川家は地元韮山を拠点とし、武州八王子などを開墾して領地を広げるのだが、氏照と江川、韮山と高尾の縁(えにし)には深遠な歴史のロマンを感じる。


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