『かえで(高尾パークボランティア会報)』掲載小論集
「江川杉の謎1,2〜高尾山に杉を植えた伊豆の代官」
No.164,165('05年3,4月号)

*この拙論は一部編集抜粋して拙書『スキャンダラスな神々』に発表しています。

江川太郎左衛門の自画像。画にも大変非凡な人で多くのすぐれた作品を残している。

 5号路・ビジターセンター下あたりに「江川杉」とよばれる杉林があることはご存知の通りである。解説には伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門(1801〜55/左写真)が天保年間(1830〜1843)に植林したとある。ここで「ふ〜ん」と納得するだけではボラ会員としてチトもの足りぬ。「なぜ伊豆韮山の代官がわざわざ高尾山に?」という疑問が湧き、喉に魚の骨が引っ掛かっているような感触があった。

 彼の役宅(役所を兼ねた屋敷)は江戸にあったとはいえ、高尾からはるか彼方の本所(現・墨田区亀沢1丁目)である。また、一役人として植林の指揮をとったというだけでは目新しくもなく、いくら江川が大人物だったとはいえ、それだけが理由で「江川杉」と呼ばれていたのでは面白くも何ともない。ここには何か深いワケが潜んでいるに違いないとにらんだ。それを解明するには、まず彼の人物像を知っておく必要がある。

 江川太郎左衛門英龍は号を江川坦庵(たんあん、たんなん)といい、江戸末期に大活躍した「時代の先覚者」である。世襲代官・江川家の三十六代目(代々世襲した者は太郎左衛門を名乗った)として有能であったばかりでなく、学者であり兵法者でもあった。海防、教育、外交など多方面に渡って活躍した非凡な大人物である。彼の本拠地・伊豆の韮山には江川が塾長を務める「韮山塾(江川塾)」があり、門弟は4千名を越えていたという。

江川の主な功績をあげると

 独学で「耐火煉瓦」を開発し、韮山に日本初の「大規模反射炉(銑鉄鋳造が可能な溶鉱炉)」を建造。数多くの新式大砲や鉄砲を生産する。この工業技術と建築技術は海外でも高く評価されている。

 ペリー来航(1853)の16年も前(1837年 *大塩平八郎の乱勃発…後出)から海防の必要性を説き、『伊豆国防御策』を幕府に提出していた。結果的に黒船騒動が起こってから、幕府はやっと江川の実力に気付き、慌てて彼を勘定吟味役として取り立てる。そこで江川はさっそく「三浦半島、房総半島、本牧、羽田、品川沖に砲台を建設せよ」とブチまけるが、もはや幕府にはそのような大規模土木事業を施工する財力は残っておらず、わずかに品川沖に砲台を作るのみに終わった。これが今に残る人気スポット「お台場」である。

 当時、国内では唯一佐賀藩だけが採用していた「種痘」を自分の担当地域、伊豆(八丈、三宅島まで含む)において実施している。彼はこれを普及させるため、まず自分の子供たちに施して見せたという。

「パン祖」と呼ばれるほど早くからパンを製造していた。これはパンの携帯性や保存性に注目した江川が、戦場での非常食としての価値を認めていたからである。ただし固くてあまり旨くない。

正装の江川太郎左衛門。「伝説と奇談 第10集/山田書院」より転写。このような超高級錦を纏ってイギリス人艦長を威圧し、平伏させたのであろう。

 1849年、下田湾を無断で測量していたイギリス軍艦を追い出す際に、訓練され正装した農兵を率い(「きをつけ〜前へならえ」の号令は当時の江川の考案)、自らを人口15万都市のガバナー(知事=イギリスでは非常に尊敬される地位)と称し…普段は質素倹約を通していた江川だが…この時は金銀で飾り立てた刀と越後屋呉服店(現三越)であつらえた超高級錦(蜀江の錦)を纏ってイギリス人艦長を平伏させた。その実績を買われてか、1854年、ペリー二度目の来航の折には「外交交渉」を任されている。

 同じく1854年、駿河湾沖で沈没したロシア軍艦の乗組員を祖国へ送り帰すため、ロシア人と日本の船大工や鍛冶職人の共同作業による洋式帆船建造を指揮。西伊豆の戸田で100トンあまりの「ヘダ号」を建造(ただし完成したのは江川没後)、無事ロシア人たちを祖国に帰している。洋式の造船技術を学んだ船大工たちはその後、この地で6隻の洋式帆船を造っている。

 江川は洋式帆船の建造に取りかかった翌年の安政2年(1855)、わずが55歳で亡くなっている。幕府から「勘定奉行(大蔵大臣)」兼「外国奉行(外務大臣)」として就任せよとの内命がくだった直後のことであった。インフルエンザの高熱を押して韮山から江戸に出たのが原因である。最後まで「今から登城する」「馬の用意をせよ」などとうわごとをくり返したという。
 ほかにも江川太郎左衛門の功績は数多くあるのだが、書ききれないのでこのくらいにしておく。
 ところで、このように超多忙な人生を送った江川が、いつの間に高尾山くんだりまでやってきたのだろうか。さらに調べてみると意外なことが判明してきたのである。(次号に続く)


 「江川杉」が植林されたのは天保年間(1830〜43)とされている。この時代は諸外国の船が日本各地の沿岸に出没して物騒な時代であった。国内では五年間にも及ぶ深刻な大飢饉が続き、一揆や打ち壊しが全国規模で勃発している。武士以外の庶民に多くの餓死者が出た中、天保8年(1837)大阪町奉行所の熱血与力「大塩平八郎」が反乱を起こした。この火種は関東にまで飛び、武蔵や相模などで「平八郎の残党が蜂起するらしい」という噂が立った。

甲州微行図(江川太郎左衛門筆)。腕組みをしている江川太郎左衛門と、刀剣の包みを担ぐ斉藤弥九郎。

 そしてなんとこの時、我らが江川太郎左衛門は斉藤弥九郎という腕利きのの家臣と共に平八郎残党の情報収集と大飢饉で壊滅寸前の幕府直轄領調査を兼ね、刀剣の行商を装って甲斐・武蔵・相模三国を隠密裏に巡察・探索したという(左図)。

 落合一平氏の『高尾山話(かえで94号)』によると「当時八王子辺は韮山代官の支配下にあった」とあるので、視察も目的の一つだったに違いない。江川は父の時代に引き継いで伊豆・駿河・相模・武蔵の天領(幕府直轄地)を治めていたが天保九年には甲斐の都留郡の支配も命ぜられたという。
 この時の成果だけではあるまいが、都留郡の政情は安定し、郡内の農民達は大変喜んで初午の節句に「世直し江川大明神」の幟を立てたという話まで残っている。

 いずれにせよ江川が韮山代官に就任して早々の任務であったが、その後の彼の約20年間に渉る超多忙人生を考えれば、このワンチャンスに高尾山またはその近辺に立ち寄った可能性が非常に高い。
  世襲とはいえ、新米代官にのしかかる飢饉・反乱・外敵など、問題山積みの緊迫状況を考えれば隠密裏の巡察が悠長な旅であったはずもなく、食料にも事欠くこの時期に、わざわざ高尾山の山頂付近に政治的判断で杉の植林をしたとは考えられない。賢い江川には、あまりにも相応しくない行為である。
 …つまり、ここは、江川個人レベルでの植林…それも薬王院への寄進だったのではなかったかと私は考えている。

 その理由は、江川が剣法「神道無念流」の使い手だったからである(一般に江川は砲術の方で名高い)。なぜならば、驚くなかれ、この「神道無念流」は福井兵右衛門嘉平という剣術家が天明年間(1781〜88)に「飯縄大明神」から伝授された剣法とされているのだ。そして江川は己の剣法の流祖「飯縄大明神(薬王院においては大権現)」を崇めていたに違いない。江川の数々の功績を振り返れば、彼の超人的エネルギーが「国家守護の兵法探求心」に源を発していたことに気付くはずだ。兵器を生産する「溶鉱炉」、戦闘食の「パン」、対外敵用「砲台」。
  …これらと同じステージに「武術としての剣法」があったのではないだろうか。前号に掲載した江川の写真を思い出していただきたい。えらく凄みのある刀を持っているではないか…。江川の本質は武士なのである。江川と共に隠密行動をした家臣の斉藤弥九郎も神道無念流の使い手で、道場では弥九郎の方が先輩であった。

 これでやっと「江川太郎左衛門」と「樹齢160年以上という高尾山の江川杉」がドラマチックに繋がった!
 そもそも飯縄大明神とは室町戦国時代に武門に崇拝された戦の神であった。1233年、飯綱山に籠もり飯縄大明神を捻出した(感得した)人物は飯綱山南麓に城を構えていた武将、伊藤忠縄・盛縄親子(千日太夫)といわれている。その後、上杉謙信、武田信玄などの名将が篤く信仰するに至った。薬王院においては1376年、密教僧の俊源大徳が護摩を焚いて飯縄大権現を呼び込んだ(勧請した)とされるが、その約200年後に北条氏の信仰を大いに得たことや、武田氏の家臣(信玄の妹「松姫」とも信玄の妾ともいわれる)がこの地に飯縄大明神を祀ったこととも深く係わっているはずだ。武田の流れを汲む千人同心の存在も無視できぬ。つまり、それほどに飯縄大明神は武門に奉じられた神だったから、武術の祖と祀られても何の不思議はなかったわけだ。他にも飯綱山からは忍法や馬術をはじめ、いくつかの武術流派が出ている。もともと「天狗」や「狐使いの妖術」まで出ているのだから。

 この「神道無念流」を修した福井嘉平は、剣の奥義を究めるため諸国を巡歴し、最後に飯綱山に五十日間籠もった。このとき嘉平の前に老翁が現れ剣の奥義を伝授したのだという。この老翁こそが飯縄大明神で、神道無念流はここから名付けられ、この神を流祖としたのである。
  嘉平は1789年に没したが、愛弟子の戸賀崎熊太郎(1744〜1809)がこの剣法を継いだ。この熊太郎が江戸に「戸賀崎道場」を開き、以後戸賀崎の名は五代続く。この流派は指導者にも恵まれ、剣のみならず学問にも人格的にも優れた人材を多く輩出した。

 その中の一人が江川太郎左衛門というわけだが、年齢的に初代熊太郎の直弟子だった可能性は薄い。
 ついでながら神道無念流は幕末にも栄え、江川の師である画家で蘭学者の渡辺崋山、水戸藩士・藤田東湖、武田耕雲斎、長州藩士・高杉晋作(柳生新陰流でも有名)、若干21歳で神道無念流免許皆伝を受けた桂小五郎(木戸孝允)、新撰組の永倉新八、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助ら、敵味方とり混ぜた錚々たる人物が名を連ねている。
 ちなみに靖国神社の境内には神道無念流道場跡の碑が建っている。

平成11年、飯綱山頂本宮に奉納された神道無念流武芸者の誓文。

 昨年夏、飯綱山山頂近くの飯縄奥社を訪れた際、社殿の隅にひっそりと置かれた絵馬(下写真右:平成11年7月奉納)を発見した。それは今なお精進錬磨を重ねながら「神道無念流」を継承する剣士達の飯縄神への誓文であった。
  武門の神…凛々しい飯縄大明神の一面を垣間見た思いがして、この時はさすがに胸が昂った。(完)

 

追記:まさか高尾VC(ビジターセンター)に韮山土産「江川のパン」があったとは…ごちそうさまでした。予想通りの固さと噂通りの味でした。これも飯縄大権現と江川杉のお導きに違いない。(VCのスタッフ新津 紅さんのお土産。掲載カラー写真も紅さん提供です)

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