『そのほか必要に応じて書いた』小論集
『ししまる会報(武蔵野第四中学校同期会時報)』編集後記集

創刊号('03年9月) 第2号('04年4月) 第3号('05年2月) 第4号('06年4月) 

第5号('07年5月) 第6号('08年6月) 第7号('09年5月)


創刊号('03年9月)
 ところで、1年先輩で生徒会長をしておられたS.I氏を覚えていますか。彼は私にとって中学・高校を通じての先輩、クラブも同じ(中学は山岳部、高校は文芸部)でした。高校卒業後「東京キッドブラザーズ」に籍を置き、現在もシンガーソングライターとして地道な活動を続けておられます。そんな彼に数年前、友人の音楽プロデューサーの紹介でお会いする機会がありました。懐かしさ一杯でライブハウスの楽屋まで訪ねていったわけです。まあ、クラブやバンド活動を通しても可愛がっていただいたわけですから、当然私のことを覚えているはずと自信満々でしたが、「う〜ん、確かにボクはキミを知ってる気がする」と妙な言い訳を呟きながら腕組みをしたきり、それ以上思い出せない様子。「高校ではお互いにバンドやってたじゃないですかぁ。先輩はフォークでボクはロック!」と悲痛な思いで訴えても無駄でした。ライブが終わった直後でもあり、長居は失礼なので傷心のままお別れを告げた私の背中に「あっ!そういえばキミ、ひょっとして…もっと痩せてなかった?」と、とどめの一言がグサリ。人を変えるのは時間というより体型なのかも知れませんね。
 最後になりましたが『時報』を作ろうという私の提案に快く賛同してくださり、ご協力してくださった幹事の皆様に感謝いたします。微力ではありますが本紙の発行が当会の発展のお役に立てるものと信じて制作しました。創刊号は都合上、幹事の記事が中心になってしまいましたが、次号からは四中同期生相互の情報交換の場として大いに活用していただき、可能な限り長く続けたいと思います。


第2号('04年4月)
 皆と懐かしい話をしていて、また、皆からの投稿記事を読ませてもらって…ふぅ〜ん、こんな感じ方をしていたひねくれ者もいたのか…と知ってもらいたくなった。
 あの頃の私たちの中には、先生を好きになれた生徒、好きになれなかった生徒、先生から可愛がられた生徒、疎まれた生徒、先生を無視をした生徒、無視をされた生徒、という『異質の人格』が混在していた。
 幼稚で姑息でセコい悪ガキだった私は「大人を好きになれなかったガキ」であり「大人から疎まれたガキ」であり「教員に不信感を抱くガキ」であった。とても失礼なことかも知れぬが、正直申し上げて今でも小・中学時代のほとんどの教員は「会いたくねェなぁ〜」という連中ばかりなのだ。
 50を半ばも過ぎた今の私たちより、はるかに若かった当時の教員達が聖人君子であったはずもなく、ただただ私は彼らにとって嫌なガキだったのだろうことは手に取るようにわかる歳である。わかっていてもなお…幹事会の席上で「今回は先生を呼ぶか?」という議題が出るのだが…「やはりやめておこう」という結論に落ちつくとホッとしてしまう。
 ただ、会ってお礼を申しあげたい先生もいる。当時都立高校受験資格を得るためにはある程度の平均した成績が必要だったのだが、某人気?男性教員は都立受験を目指す私に、不当に低い評価をつけてくれた。そのあからさまな嫌がらせに、私の担任だったチョークI女史は大いに憤慨し、私の答案用紙を握りしめ、その某教員と大喧嘩までして正当な評価をするよう交渉してくれたという。その場には他の教員も大勢おり、某教員は彼女の正論と迫力に負けたという話だった。しかし、それは本来当然の結果なのである。むしろそれなりに純粋だった私から見て、公正であるべき教員が自分の個人的感情で他人を評価することの不条理を思い知らされ、「やはり大人は汚い」という絶望感に襲われた。イヤなガキは徹底的に大人に嫌われるというわけだ。これから先、何人のアホな大人達の独断によって自分の将来が翻弄されてしまうのだろかと弱気になった。
 都立府中高校合格の報告をI先生にしたとき、先生は泣いた。彼女の涙を見た時「自分のために泣いてくれる親以外の大人」の存在を初めて知った。あの涙に対する感謝の念は今でも忘れられぬ


3号('05年2月)
 以下は8組のH幹事あてに届いたY〔A〕Kさんのご主人、Y.Nさんの葉書文です。
『拝啓 H.J様 始めまして、私はY.Kの夫です。Kは大変残念でしたが去る7月6日に死去しました。慢性関節リュウマチの合併症の消化管アミロイドージス沈着という難病を患い、長年苦しんだ上のことです。私も無念でしようがありません。本人は今回の同窓会に出たいとか、出席できるかな、と4月ごろからいっていました。本人も非常に心残りのことと思います。皆様のご交誼に感謝致します。ありがとうございました。 敬具』
 Y.Nさん、失礼かと存じますが、ここでは奥様を「Aさん」と書かせてください。私は高校時代までの彼女しか知りませんので。
 じつはAさんについては特別な思い出があります。私は中学に続いて高校でもバンドを組んでいました。Aさんは確か女子校に進学され、その学校でロックバンドを組んでいて、ベースギターを担当していたと記憶しています。ドラマーだけ男性で、誰かの弟さんでした。
 なぜ知っているかというと、彼女のバンドがパーティーをやるというので、私のバンドが共演のお誘いをいただいたからです。もちろん女子校生バンドとの共演を断るわけがありません。
 それまでのAさんには、どちらかというと地味で大人しい人という印象を持っていましたが、パーティー会場でベースを弾くスレンダーな彼女は、キラキラと輝いていました。
 なにせ、私のバンドのギタリスト、Sくんが一目惚れしてしまったほどですから…。
 訃報をHくんから知らされた時、あの日のAさんの姿が生き生きとよみがえり、すぐにSくんに『彼女のこと覚えていますか?』とメールを出しました。以下はSくんからの返事です。
『ごぶさたしております、Sです。連絡ありがとう。彼女のことは良く覚えています。面影はかすかですが、川副に取り持ってもらい、私が初めてデートをした女性です。五月の連休中に井の頭公園を二人で歩き、「吉祥寺名店会館(今の東急)」の上の喫茶店でお茶を飲み…。それっきり後の記憶は消えておりますが、ドキドキしながら過ごした一日のことを思い出すと、やはり胸が熱くなってきます。ご冥福を祈りたいと思います。』
 SくんにもAさんにも、もちろん私たちにも成就することのない青春があったのだなあ…。それにしてもY.Nさんの簡潔で心のこもった文面を読んで「Aよぉ、アンタいいダンナに巡り会えて幸せだったよな」と思った。できればオバハンになったキミを見てみたかったけどね。


第4号('06年4月)
 今回は遅刻の参加で失礼しました。理由は会場で申し上げたとおり高尾山でのボランティア活動をしていたからです。活動のメインは小学校高学年を対象にした「親子自然教室」のインストラクター。当日は山麓の沢での水遊びで、私はヤゴやカワゲラなど、水生昆虫の解説を担当していました。他にも、丸太をノコギリなどで切り、加工してクラフトを作ったりする教室もあり、そんな教室での一日のこと…。
  切れないカッターを使い、手こずっている女の子がいたので、「おじさんは鉄のナイフと金のナイフを持ってるけど、どっちがいい?」と話しかけると、すかさず彼女は「金のナイフ!」と答えた。取扱い方を説明してから愛用の切れ味のよい方を渡した。
  そんなことはすっかり忘れていた頃、彼女の祖母から礼状(投稿文)が届いた。手前味噌だが、自分にとっては非常に嬉しかった文面だったので一部紹介させていただく。ただし、祖母の方はその場にいなかったので「金のナイフ」の意味がわかっていない様子だ。
『…家に帰ってからの彼女は「面白かった。楽しかった。良かった」と言い通し。「みんな優しいよね。普通、大人は子供にそんなに優しくしてくれないよ」「どうして? 学校の先生だって優しいでしょ?」「ううん、学校はちょっと違う。おじさんが金のナイフ(??)を貸してくれたしさ」
 …妙な感心ながらも、しみじみと何気なく言った彼女の言葉に、なんだかじ一んときて是非書き留めておきたいと筆をとりました。ボランティアの方々から一人前に扱われ、親切にも大事な金のナイフまで貸していただいたことが、子供によほど嬉しかったものとみえます。自分を信じて教えてくれる大人の親切に優しさを感じ、寄り添おうとする子供の心のなんと柔らかなこと…』
 やめられんなぁ〜。彼女は私の顔など覚えていないだろうが、この日味わった「一人前」の快感は忘れないと思う。しかし正直言って、この歳になったからこそ、ましてや他人のお子さんだからこそなのだろう。自分の子供には、こうはいかなかったもの。だから、せいぜい孫相手に罪滅ぼしをせねばと思うわけである。


5号('07年5月)
 今回は4組のI.Kくんに寄稿をお願いしたところ、私との思いで話などを書いてくださり、少々こそばゆい思いをしながら読ませていただいた。文面には私自身忘れていた事なども盛り込まれており、記憶とは人それぞれ異なるものだナと感じると同時に、皆それなりに苦悩しながら青春をすごしたのだと安心もした。
 しかし私の場合、未だに当時からのイタズラ精神は消えず、年齢的にはとっくに社会の一員と見なされているにもかかわらず、反社会的な反骨心は一向に衰えないジジガキになってしまった。今もってエラぶる奴、威張る奴が嫌いなのだから家族には申し訳なく思っている。
 高尾山でボランティアを始めたのも、リタイアした時に慌てて「お仲間に入れてくださ〜い」などと頭を下げたくなかったからだし、「ししまる」の編集を買って出たのも「人の倍楽しむぞ」という欲求からだ。それと、皆様に迷惑をおかけした償いの気持ちも少々…(ホント)。
 東京都に90名登録されている高尾パークボランティア会には、野草、樹木、鳥類、昆虫、ムササビ、撮影、環境問題、伐採など、プロ級の知識や技術を持つ人も多く、図鑑を暗記したただけで知ったつもりになっていた生半可な私の知識は「屁」であった。しかしある時、歴史や信仰の専門家がいないことに気付き、それまで民俗学を独学していた私は高尾山薬王院の本尊・飯縄(いづな)大権現に関する伝承の研究を始めた(この神は信州戸隠周辺が信仰発祥の地で正体は天狗である)。これも自分にとって居心地の良い場所を探すためのナニクソ精神からだ。
 石の上に座って4年目の春、長野県の小さな出版社からお声がかかり、それまでの成果を本にしてくださった。同年の夏には本場戸隠での講演会に招かれたり、長野県の学芸員から飯縄信仰特別展への招待状をいただくまでになった。発行部数が少ない上、地味な講演会などでは多額の謝礼など望むべくもないので喰うにはほど遠いのだが、薬王院の真言僧一行が戸隠を訪れた折、わざわざ拙本を数冊買って帰ったという話を聞いた時は、失礼ながら感謝というより、むしろ「エラいお坊さま方の足元をすくってやったぞ!」という痛快な気分であった。
 5年目の今春から「高尾山ふしぎ噺」と題し、京王電鉄の隔月情報誌「TAKAO」への1年間に渡る連載も決定し(これも見事なボランティア価格だが)ありがたくお受けしている。
 変わりようがないとはいえ、バカも一筋に貫けばそれなりに認めてくれる人も出てくるのだなぁ…ということなのだろうか。じつは高一の時、国語の教師が私の作文をまるまる一時限も費やして評してくださり「川副は絶対モノ書きになれよ」と励ましてくれた折、その気になって抱いてしまった使命感を忘れられぬままこの歳に至ってしまったのだ。それが悪ガキ時代以来の反発精神と相まり、ベクトルが方向転換を始めたのか…。今夏も戸隠から講演のお招きをいただいたので、仲間を集めての戸隠ツアーを計画してしまった。


第6号('08年6月)
 「あと何回こんな鮮やかな色が見られるのかな」と眩いたら「おい、ぞえが言うのはまだ早いぞ!」と怒られた。私の大好きな「カツラ」の新緑を高尾ボランティアの先輩達と見上げていた時のことです。彼らは私より十歳も年長。とはいえ、動植物の生態、地質、自然教育などの知識はプロ顔負け。コンピュータなどへの学習意欲も盛んで「この前何ギガの外付けHDを買った」とか言っている。とにかくよく勉強しているのだ。だから植物のことなど質問すれば何でも答えてくれるのだが、過去に私が何を質問したのかも覚えていて、同じ事を聞くと「この前教えたぞ」とやられる。彼らの持論は「自分で学習しなければ何も覚えられない」ということなのだ。酒も私より飲む。教えられることが多いから彼らと一緒に飲むのはすごく楽しい。ただ一方的に恩恵を受けるだけでは自分の存在価値が無いような気がして、彼らの未開発な分野をもっと勉強して知識の恩返しをしたいと思うようになった。で、民俗学(庶民信仰)に関しては一目置かれるようになった。つまりギブ&テイク。人生は短いけれど「知識欲」を満たしてくれるフィールドは無限にある。だから向学心のある人とふれ合うのは楽しい。もちろん全ての先輩がそういうわけてはないけれど、少なくとも彼らは皆、無理をせずに活動を楽しみ、その中から自分なりに他人様に役立つ方法を探り出し実践している。そんな彼らに言わせれば「還暦」なんて「やっと大人の仲間入り」ってところなのだろう。


第7号('09年5月)
 すでにお手にとってお気付きのことと思いますが、不況のあおりで今月号からHプリナートさんからの印刷協力がいただけなくなりました。したがいまして時報の発行は続けますが、自宅オフィスのプリンターでの出力となりました。クオリティー
はだいぶ落ちてしまいますがこのようなキビシイ時代ですのでご了承下さい。
 ところで空前の大不況と騒がれでいる昨今ですが、私の場合、もともと好景気とは無縁の生活でしたから正直いってさほど影響はありません。物資欲が極端にないので家族や親戚から「変人」を越えて「病気扱い」されていました。「いい歳をして情けない」ともいわれ続けてきました。たしかに金銭面では周囲にひとかたならぬ心配と迷惑をかけてきました。もちろん私とて家族の幸せや安寧を願っているのですが、どうも「幸福度」の目盛が一般の人とはだいぶ違うらしい。
 ほんの数年前、本格的に現在の編集著作業に入るまでは主に商業デザインを手がけていたのですが、じつは心中ではずっと矛盾を感じていて、結局は経済至上主義の潮流に乗れませんでした。世間ではそんな人間を敗北者・落ちこぼれと呼んでいるようですが、それでも「自分の生き方は正しい」と信じ続け、特に不運を感じることもないままズルズルとこの歳になってしまった。逆に歳を重ねるごとにすばらしい仲間、友人(もちろんししまる会の友人も含めて)に恵まれるようになりました20代の若者から80代の大先輩まで、利害抜きの友人達にも囲まれています。これは胸を張って自慢できる財産です。
 借金をほぼ返済し(というか目途も立ち)、親の事情もあって今春から自宅をオフィスにしました。今は私を信頼してくださる仕事仲間に助けられ、妻の叱咤激励をもらいながら生きています。だからといって隠居する気は全くありません。向上心も充分あります。今年は定年を迎えられる方も多いと思いますが…ししまる会の皆さん! これからの限りある人生を、共に肩の力を抜いて楽しくやっていきましょう。私は『ししまる時報』を通じて出来る限り長く皆さんと繋がっていたいと思っています。



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